■ 白獣の休息 ■



■ 1 ■

いつの時点で不審に気付くべきだったのか、今更後悔してみても始まらないことは解っている。
それでも、今後二度と同じ目に遭わないようにするために、自らの失策を振り返ってみることは必要だろうと思う。
それが………どんなに些細なことであったとしても。

(―――とはいえ)


今の状況で呑気に反省会、と言うのも莫迦げているのかもしれない。
過去の失策を振り返るより、むしろこれからの良策を思考するべきなのではないかとも。
否、事は非常事態なのだ。これからどうするべきかを考えるならば、やはり今の状況をもたらした原因を思考するのが得策だろう。

(くそ……松本のヤツ)

普段は仕事などまるでしないくせに、こう言うことに関してだけ頭の回転も行動も速い。

いや、今回はオレも悪かったのだろう。大体、端からおかしいと気付くべきだったのだ。
事は、今から数時間前―――仕事が一息ついた三時の休憩時間、いつも通り期待もせずに茶を頼もうとしたら、それよりわずかに早く、松本が飲み物を出してきた。
しかも、驚くべき事に緑茶をオレ好みの温度で、おまけに慎ましやかに茶菓子まで添えて。

思わず「……熱でもあるのか、松本」と問うたのも必然。
なにせ勤務中でも構わず酒を飲む松本は、オレにも平気で酒を出してくる。
しかも結構な高確率でだ。
これまで何度己の不遇を嘆き隣隊の六車を羨んだことか。
一度で良いから檜佐木のようにオレが何を言わずとも、適温の緑茶と茶菓子くらい出せないものなのか。

恥ずかしい話だが、正直これはオレの悲願だった。それも決して叶わぬ悲願だ。
ところが、それが今日、唐突に叶ったのだ。
本来なら、当然その不自然さを疑うべきだったのだろうが、ここのところの激務で疲れていた脳みそに、松本の気遣いは心から有り難く、むしろほろりとした想いを抱きながら、美味しくその茶と茶菓子―――確か南瓜餡の饅頭だった―――を頂いた。
そして、今………オレは、激しくそれを後悔する羽目になっている。

(とんでもないものを飲ませてくれやがって……)

大方出所は知れている。
こんな妙ちきりんな薬を作るのは技局……おそらく、菓子で懐柔しやすい壷府リンあたりだろう。

「だーいじょうぶ、副作用はありませんからー」と、呑気に松本は笑ったが、この事態そのものが副作用ではないか。
だってそうだろう?死神が獣に変わるなんて、どう考えたって副作用の類に列挙されるべき事態だ。


(はぁ……)

全く嫌になる。
今のオレは紛うことなく一匹の獣だ。
まぁ、見た目は悪くない。
ご丁寧にも松本が見せてくれた鏡の中にいたのは、ふっさりとした白銀色の毛とエメラルドグリーンの瞳を持つ四本足の小型獣。
見た目からして、例えるなら狼の子どもだろうと思うのだが、オレを抱いた松本はけらけら笑って「可愛い仔犬ちゃんになりましたねー」と言ってくれやがった。

誰が仔犬だ、誰が……!
唯一の救いは、この姿に変わったのが執務終了後で、隊舎に残っていたのがもう松本くらいだったということだ。
否、それすら松本が手配したことだったのかも知れない。

人気がなくなり、妙に静かになった十番隊隊舎、その隊首室で定時に大量の書類を片づけ、椅子から立ち上がって斬魄刀を背中に帯びようとしたら、ふらりと眩暈―――ここのところ仕事が立て込んだから、きっと疲れが身体に出てしまったのだろう。
そんなことを思いながら、床に着いた手を見て………そりゃぁ驚倒した。

最近成長著しく、少しは骨張って男らしくなってきたはずのオレの手は、何故かふさふさとした獣毛で覆われていたのだ。
しかも足裏にはぷにぷにとした肉球の感触。
「な、なんだこれは!?」と叫ぼうとしたはずの声は、何故か「がぅっ!?」という獣の声に。

そしてそれを合図にしたかのように部屋に入ってきた松本は……開口一番見たこともないような晴れやかな笑顔でこう言いやがったのである。

「よっしゃ!大成功!!」 

………何が大成功だ。
よくもまぁ―――自分よりも遙かに年下とは言え―――自分の上司に薬を盛って、嬉しそうな顔をしていられるものだ。
だがともかく、松本の満面の笑顔を目にした瞬間、オレはオレがこうなった元凶の在処を知った。
当然、ぶちんと堪忍袋の緒も切れた。怒鳴ろうともした

「がるるるる………

だが悲しいかな……今のオレの口から出て来たのは、獣の威嚇声。
言いたいことの一パーセントだって伝わりはしない。
いや、そもそも言葉がきちんと発せられたところで、反省の二文字をきちんと実践するようなヤツではないのだ、この松本は。

その証拠に、ひょいとオレの側にしゃがみ込んだ松本は、「まぁまぁ、そう怒らないで下さいよ。だーいじょうぶ、副作用はありませんから」
そう言って、オレの首に手早く何かを巻き付けた。
何やら少し締め付けられた感じがして、首を引っ掻くようにすると「あぁ、駄目ですよ隊長」と言いながら、松本が自分の机から莫迦でかい鏡を持ってくる。
そしてそこでようやくオレは、オレ自身の姿形が、今どうなっているのかを知ることとなったのだ。
無論、驚倒二度目である。

なにせオレ自身の死覇装に埋もれていたのは、白銀色の体毛とエメラルドグリーンの瞳、後方でふさふさと揺れる尻尾を持ち、葡萄茶の首輪をさせられた四本足の一匹の獣。
何だこれは、狼……か?
だが、松本はと言えば、そんなオレの姿をしげしげと見つめると、

「んふふ。可愛い仔犬ちゃんになりましたねー。これなら可愛がってもらえそうですよ」

そう言うなり、ひょいとオレを抱き上げた。
何だ何だと思う間もなく「さ、行きましょ隊長」と言われ、隊首室から連れ出されてしまう。

行く?行くって……外へか!?
冗談じゃない、こんな状態で外へなど出るわけにいくか……!大体どこへ連れて行くつもりだと、オレは松本の腕の中で身体をばたつかせた。
だが、―――これだけは松本の言う通り―――仔犬とほぼ変わらぬ大きさのオレが、仮にも副隊長である松本に叶うはずがない。
必死の抵抗は空しい結果に終わり、結局、あのでかい胸に窒息させかけられ、オレは早々に白旗を揚げる羽目に。
すると、ふんふんと軽い足取りで廊下を歩く松本が、嬉しそうに笑いながらようやく諸々を説明してくれた。

 「そんなに怒らないでくださいよ、隊長。これもぜーんぶ隊長のためなんですよぉ?隊長、最近仕事が忙しくてお疲れだったじゃないですか?だからこの優しい部下である松本乱菊が、一夜の休息場所を用意してあげようと思いましてね」

は?休息場所?

 「もうこれ以上はないって位、最高の休息場所ですからね。ただ、そこで休むためには隊長が隊長の姿でいちゃまずいんで、仔犬ちゃんに変えさせてもらいましたー。心配しなくても、元に戻る薬はアタシが持ってますから、ゆっくり休んできてくださいねー」

ゆっくり休んで、って……いや、それ以前に、オレがオレの姿でいちゃまずいって?

「いやー、苦労しましたよ。いくら日番谷隊長でも、死神姿のままじゃ、どうやったって六車隊長は許してくれませんもん。それでアタシものすごく考えたんですよー。慣れないお茶まで入れる羽目になっちゃったし。でもその甲斐あって大成功。今の隊長を見て、誰も日番谷隊長だなんて思いませんし、ほら、霊圧もすっかり消えてるでしょう?よくできた薬ですよねぇ」

あぁ、確かに良くできた薬だな……って、そうじゃない!
嫌な予感がする。この上なく嫌な予感が。
そしてその予感は違わず、とどめとばかりににんまりと笑った松本が言った言葉が、コレ。

「ご想像通り、これから行くのは修兵の家ですよ。あの子、小さな動物とか好きですからねー。きっと隊長のことも可愛がってくれますよ」


――――そして今、オレは檜佐木と六車が暮らす家の庭に立っているというわけで。


 (くそ…寒い……)

いくら獣になったとは言え、寒いことには変わりがない。
しかも、檜佐木の家に着くなり、松本のヤツはいきなり塀からオレを庭に投げ込みやがったのだ。
慣れない身体は見事に着地に失敗し、おかげでオレは現在雪まみれ。
しかも朝から降り続く雪が、オレの身体を更に雪まみれにし始めている。


(はぁ、それにしても、ここが……)

実は、檜佐木と六車が暮らす家に来たのは初めてだ。
六車の帰還と復帰を機に買ったと言うここで、二人は毎日穏やかに暮らしているという。
まだ新しい平屋の家の障子には、仄かな灯り。
どうやら二人は在宅らしい。だが、このまま松本の提案にのるのもどうなのだろう。


(うぅ、しかし本当に寒いな……)

先ほどから吐く息は、雪と同じくらい真っ白だ。
庭は、一面銀世界。
すっかり葉を落とした庭の木々に、雪がふんわりと積もっている。
せめて雪が積もっていないところへ身体を置きたい。
ここだと、縁側近くの大きな踏み石にはまだ雪が積もっていないようだ。
ひとまずそこを目指して、慣れない体を動かす。
刹那聞こえてきた「明日の朝、迎えに来ますね隊長!」という声に振り返ると、塀からひらひらと振られる手が見えた。
松本はこれにて退散というわけか。

仕方がない。あいつの提案にのるかそるかはこれから考えるとして、とにかくこの足裏の冷たさだけはどうにかしなければ。
そう思ったオレは雪の中を駆け出し、白い絨毯に足跡を転々と残しながら、五、六メートル先の石を目指した。


(よし、あと少し……)

だが、ここで予期せぬ事態が起きた。

目の前の仄明るい部屋の障子が、かたん、と開いたのだ。
そして次の瞬間、「あれ?今、何か動いたような……」という声。
思わずびくっと足を止め、そろそろと視線を上げる。

(まずい……)


静かな冬の空に響く、心地良いテノールの声。
その主はやはり……檜佐木だった。

檜佐木はどうやら帰ってきたばかりらしい。
背後の部屋の灯りに照らされたその姿は、まだ死覇装のまま。
冬でも変わらず袖無しのそれが寒くないのだろうかと心配になるが、今は自分の方を心配しなくては。
何とか気付かれずにすんでくれ、と心底願う―――が、そこは六車の右腕。
雪と保護色のオレをこの暗がりでもあっさりと捉えてしまったらしく、猫のような目が、幾度か瞬かれた。
困ったことに、その視線は、間違いなくオレに向けられている。

そして、その瞳がオレの存在に対する確信を帯びたところで、

「……わぁ、どっから来たんだ?」

そう言って、檜佐木はオレににっこりと笑ってみせた。
………可愛かった。
普段の有能な副隊長の顔も魅力的だが、無邪気に屈託なく笑う檜佐木は、本当に可愛い。
知らずそれに見とれて動けないでいると、檜佐木は何か誤解したらしい。


「んっと……大丈夫。怖くないよ。こっちにおいで。そこじゃ寒いだろ?」

確かに。
一日中降り続いていた雪は、先ほどから更に勢いを増したらしく、気温もどんどん下がってきている。
足に直接接する雪も冷たくて仕方がなかった。


「おいで……そう、ほら、こっちだよ?」

肉体的な限界と檜佐木の優しい声に誘われるように、縁側に近付く。
ひとまず、当初の目的地であった踏み石に飛び乗ると、間近に迫っていた檜佐木が、そっとしゃがみ込んでこう言ってくれた。


「寒かっただろ?上がって良いよ」

一瞬思考、一瞬躊躇……そして、やはりこの寒さは身体にこたえた。
板張りの縁側に前足を伸ばし、石に比して遙かに温かい床にそれを降ろす。
だが、その途端、足についていた雪で床を濡らしてしまったことを察し、オレは慌てて前足を引っ込めた

「?……どしたの?」

そんなオレの行動を檜佐木は不思議に思ったらしい。
だが、賢いその頭は獣らしからぬオレの気遣いを、しっかりと理解してくれたようだ。
「あぁ、そうか……ちょっと待っててね」と言って、一時どこかへ。
冷たい石の上でじっと待っていると、ぱたぱたと戻ってきた檜佐木は、ふかふかとしたバスタオルをオレの目の前の床に敷いてくれた。


「はい、ここにのると良いよ」

その言葉に甘えて、ひょいと縁側に飛び乗る。
柔らかい感触のタオルが、冷え切った肉球に温かい。
自然、すとんと腰を下ろすと、逆に視界が持ち上がる。
それに伴って、ほんの数秒身体の安定感を失ったが、すぐそれも収まった。
そして、間近に見えたのは綺麗な紫黒瞳。


「よしよし……寒かっただろ?この雪だから」

次いで、頭に降り積もっていた雪を優しく払われる。
檜佐木がオレをタオルごと持ち上げてくれたのだ。
あたたかい腕にすとんと抱き込まれて緊張が緩んだのも束の間、綺麗な瞳に真正面から顔を覗き込まれ、オレは若干硬直した。


「どこから迷い込んだのかなぁ……あ、首輪があるって事は飼い主さんがいるんだな」
(うわ、近い近い……っっ!)

こんな間近で檜佐木の顔を見るのは初めてなのだ。
遠目でも綺麗だと思っていたそれは、近くで見ると一層綺麗だった。
白い肌はどこまでも滑らかで、瞳は清冽。
寒さで僅かに色づいた頬と唇は、女性がする化粧なんかよりも、遙かに綺麗な桜色をしていた

(………っっっっっ!)

心の準備が出来ていれば素直に見とれていたところだが、この僥倖はあまりに急すぎた。
一気に全身が緊張してしまったオレは、多くの動物たちがそうするように、一瞬で身体の毛を逆立たせ、それを震わせた。
要するに、雨に濡れた犬などが、その身体についた雫を振り払うために行う行動だ。
そして、雪にまみれたオレがそれをすれば―――結果は明白だった。


「わ、ぁ…っ!冷た……!
(あ……っ!)

オレと檜佐木の周りにだけ降る、屋内の白い粉雪。
それに、檜佐木が短い悲鳴を上げた瞬間だった。

「っ……どうした、修兵っ、何かあったのか?」
(うげっ、六車!?)

色々な意味で、今この場に来て欲しくない人物ナンバーワンが、部屋からものすごい勢いで飛び出してきた。
檜佐木の恋人で九番隊隊長の六車拳西である。


「修兵、大丈夫か?」

おそらく檜佐木の悲鳴を聞き、恋人の危急と思ったのだろう。
心配そうに檜佐木の頬に手を伸ばし、そこで、恋人の腕に抱かれたオレに気付くと……


「あぁ?なんだぁ?……犬っころか?」

だから誰が犬っころだ、誰が

「えぇ?もう、拳西さん、よく見て下さいよ。仔犬じゃないですよ。多分、狼の子ども。ほら、ちょっと狛村隊長に似てるじゃないですか」
「そうかぁ?オレには六番隊の赤犬に似てるように見えるぜ?」

………失礼な。

「んで?そいつどうしたんだよ」
「あぁ……今庭で見つけたんです。多分、どこからか迷い込んじゃったんですね。身体に付いていた雪を払ってあげていたら、ちょっと驚かせてしまったみたいで身体をブルブルって……」
「それで、雪がお前に飛んだってわけか」
「はい。冷たかったんで思わず声を上げちゃいました。ごめんなさい、吃驚させて」
「いや、大事がないなら良いんだ。……で、そいつ野良か?」
「いいえ。首輪をしてるので、どこかで飼われてるみたいなんですけど……」
「ふぅん。んじゃ、門から外に出してやれよ。外に出してやれば帰巣本能で帰るだろ」
「そんなぁ、可哀想ですよ。ほら、もう夜だし外も暗いし、雪も非道くなってきてるし、この子、まだこんなに小さいし……せめて今夜一晩だけでも……」

そう言って、眉を八の字にした檜佐木が、上目遣いに六車を見る。
唯一の弱点たる檜佐木に、こうも可愛らしくお願いをされて、それを拒絶できる六車ではない。

一応形だけ考える素振りを見せた六車は、「今夜一晩だけだぞ……?」と、既に檜佐木のお願いを聞いた瞬間に出した答えを、不承不承と言った体で提示した。
するとその途端、檜佐木の表情がぱぁっと華やぐ。

「わぁっ、本当ですか!ありがとうございますっ!拳西さん!」 
「ん。そうと決まったら、ちゃんと面倒見てやれ」

「はいっ!じゃあ、早速ご飯にしますね。時間が時間ですから、この子もお腹空いているかもしれないですし、拳西さんもお腹空いてるでしょう?」
「あぁ。今日の夕飯って何だ?」
「鶏の水炊きです。下拵えはしてありますから、すぐですよ。火の準備お願いできますか?」
「了解。ついでに火鉢と炬燵もオレがやっとく」
「はぁい、お願いします……よかったね、拳西さんが良いって言ってくれて」 

………まぁ、な。
否、本当にこれで良かったのかは若干疑問だ。
こうなってはもう、密かにここを抜け出すという
選択肢は選べない。
そんなことをすれば、檜佐木に余計な心配をかけてしまう。
松本は明日の朝迎えに来ると言っていた。
どういう方法で迎えに来るのかは知らないが、ともかくそれまでは、ここにいる方が得策だろう。


(すまんな、檜佐木……)

弾んだ足取りでオレを抱き運ぶ檜佐木を、そっと見つめる。
松本の言っていたとおり、今のオレのような小さな動物が、檜佐木は好きらしい。
嬉しそうな顔でオレを居間らしき部屋に連れて行ってくれると「すぐご飯にするから、待っててね」と言って、オレをタオルと共に畳の上に下ろしてくれた。
そして自身は、食事の支度をするべく台所へ。
追いかけたい気持ちは山々あったが、下手につきまとって檜佐木の邪魔をするのも悪い。
六車と二人にされるのはいささか気が進まなかったが、オレはおとなしくそのままじっとしていた。

するとオレと共に部屋に残った六車が、火鉢と炬燵に火を入れ、どこからか持ち出してきた卓上で使う調理器をかちゃかちゃといじり出す。
家のことを進んで檜佐木と分担しているのはさすがと言えるが、あのでかい身体で細かい作業をするその姿はかなりアンバランスだった。


「さて……これでよし」

しばらくしてセッティングが終わったのか、火鉢の前に腰を下ろした六車。
鉄箸で幾度も中の炭をつつき始めたところを見ると、やや手持ち無沙汰になったらしい。
まぁ、変にばたばたされても困るが……否、前言撤回だ。
ばたばたして、オレを気にかけないでいてくれた方が余程ありがたかった。
なんと六車は、あろうことかオレをじぃと観察し始めたのだ。


(ばれて、ねぇよな……)

霊圧は完全に封じられているから、オレと気付かれることはないはずだが、妙に不安になる。
するその不安が、やや現実のものに。「うーん」と剣呑に唸った六車が一言。


「………お前、なぁんか、どっかで見たことある気がするんだよなぁ」
(……鋭い)

だが、さすがは隊長格、なんて言っている場合じゃない。
これでばれたら最大級の面倒事が起きるのは目に見えている。
「ん?」と眉を寄せられた瞬間、ふいと席を立ったオレは一目散に駆けだした。
「あ、おい……!」と後方から声が聞こえてきたが、止まる義務はない。
ようやく慣れてきた四本足でダッシュしたオレは、檜佐木の霊圧が感じられた場所へと素早く駆け込んだ。
幸いにして、六車が後を追ってくる気配はない。


(はぁ、助かった……)

家事を一生懸命にこなす檜佐木には悪いが、しばらく避難させて貰おう。
じっとしていれば、邪魔をすることもあるまい。
どこか座っているのに丁度良い場所がないかとあちこち見渡していると、自然、料理をする檜佐木の姿が目に入ってきた。
茶などを給仕してくれる檜佐木を見たことはあったが、台所に立って料理をする檜佐木を見るのは初めてだ。
いい匂いの蒸気に包まれながら、檜佐木はとても楽しそうだった。
手つきも玄人はだしだ。
もともと料理好きで得意料理も多いとは聞いていたが、六車が帰ってきてからは更にそうなのだろう。
今も、メインの鍋と数種の副菜を準備する檜佐木の表情は、料理を食べてくれる六車への愛情と、六車のために料理が出来る幸せで充ち満ちていた。


「うん、良い感じ……」

出来上がったものを丁寧に盛りつけ、次々に食器をお盆にのせていく。
どうやら人間用のものは完成したらしい。
続いてオレ用の食事を準備するべく、「あの子どれくらい食べるかなぁ……」と言いながら、食器棚のあるこちらに向かってきた。
そうなれば当然、その場にいたオレにも気付くわけで。

「ん?……あれっ?こっちに来ちゃったのか」

そう言って、驚いたように目を丸くした檜佐木。
だが、オレの来訪を空腹のせいだと解釈したらしく「そっか、やっぱりお腹空いてたんだなぁ……」と、柔らかく苦笑した。
そりゃそうだな。まさか六車から逃げてきたとは思わないだろう。


「もうすぐだよ。今日がお肉で良かった。やっぱりお魚よりお肉の方が好きだよな」

やっぱり、とは、オレを狼と思っているが故か。
食器棚から中型の白鉢を取り出した檜佐木は、おひつから飯をよそい、鍋から取り分けた肉を丁寧にほぐしてのせると、上から少し冷ました鍋のスープをたっぷりかけてくれた。

どうやら、人用も獣用も完成したらしい。
最後にオレのために作ってくれたものをお盆に置くと、まるではかっていたようなタイミングで、六車が台所に現れる。


「………修兵、出来たか?」
「はい」
「よし。ほら、重い鍋はオレに任せろ。お前はそっちのお盆な」
「はいっ……おいで、ご飯だよ」

にっこりと笑って、檜佐木がオレを呼んでくれる。
たたっと駆け寄ったオレに六車がいささか眉を顰めたのにはびくりとしたが、とりあえず何も言わず終いでいてくれた。
そのままおとなしく二人について歩き居間に戻ると、火鉢のおかげで部屋は大分暖かい。
手分けして皿や鍋をセッティングした二人は、しばらくすると向かい合わせになるように炬燵へと身体を入れた

「よし、じゃあ頂くな」
「はい。沢山食べてくださいね……あ、お前もいただきますだね。はい、どうぞ」
 (へ?……いや、どうぞ、って言われても)

檜佐木の横に陣取っていたオレの前、畳の上にちょんと置かれた白い鉢。
中身は極めて美味しそうで、実際腹も減っている。
だが……さすがに犬食いする勇気は出てこなかった。
さりとて箸やスプーンが使えるはずもない。
どうしたものかと固まっていると、とことん優しい檜佐木が、そんなオレの行動を「遠慮」と解釈したらしい。


「……ほら、こっちにおいで」

そう言いながら、膝の上にオレを抱き上げてくれた檜佐木は、オレ用に作ってくれた飯をスプーンで掬って手のひらにのせると、それを口元にまで持ってきてくれた。
このまま、食べて良い……って事なのだろうか。
戸惑ったままでいると、檜佐木がにこにこと笑って言う。


「大丈夫、もう熱くないよ。それとも、鶏肉は嫌いかな……?」

いやまさか。
むしろ好物だ。そろそろと口を近付け、一口大にほぐされた鶏肉を食べる。

その瞬間「あっ、食べた」と嬉しそうに呟く檜佐木を喜ばせたくて、二口三口と食べていくと、「拳西さんっ、ほら食べた食べた!」と更に嬉しそうな声。
そこに六車の名が入ることにはちょっと複雑な気分だが、料理自体は本当に美味い。
檜佐木が用意してくれたのは鶏肉入りのお粥みたいなもので、オレでも普通に食べられるし、薄味だけれど出汁がきいていてメチャメチャ美味いのだ。
時間が時間で空腹だったこともあり、瞬く間に檜佐木の手にのっている分を食べてしまったオレは、その肌に残るスープまで残らず舐め尽くそうと、柔らかい手のひらに舌を這わせた。

「あははっ、くすぐったいよ。もっと欲しいの?」と言う声に、自然と尻尾が振れる。
すると、先程と同じようにまた少し右手に飯を取ってくれた檜佐木は「いっぱい食べな」と優しい声で言って、左手でオレの頭を撫でてくれた。

そしてそれが幾度か繰り返される頃には、オレはとても幸せな想いで一杯だった。
人と獣という妙な形ではあったが、檜佐木を独占出来ていることが嬉しくて仕方がなかったのだ。

だが、それもほんの束の間のことだった。

(ん……?)

ふと感じた穏やかならぬ空気。
オレにだけ向けられているように感じたそれに顔を上げると、むっつりと顔を顰めた六車と目が合った。
だが、まさかと思った。
いくら何でも、小動物相手に嫉妬はしないだろう。
しかし、その目測は甘かった。


「……おい、修兵、お前も早く飯食べたらどうだ?」
「あ、はい。でも、折角なんで、この子に全部食べさせちゃってからにします」
「つっても、お前だって腹減ってんだろ?そいつもちゃんと食べるって解ったんだから、もう放っといても大丈夫だろ」
「んー……でも、ここまであげたから」
「しょうがねぇなぁ………ほら、修兵、口開けろ」
「え?あ、―……ん」
(………おいおい)
これには……恐れ入った。
檜佐木のこととなると、どうやらこの男は小さな獣にまで本気で嫉妬するらしい。
一向にオレの世話を焼くのをやめようとしない檜佐木の様子に、椀を持ってふいと席を立った六車は、檜佐木の横に座り込み、自分用に解した鶏肉を、箸で恋人の口の中に。
素直に応じた檜佐木を見、一瞬オレの方に勝利の眼差しを向けてきたのは気のせいか。
否、この男なら有りうる。 
だがまさか、恋人が小動物に嫉妬しているなどとは思いもしない檜佐木は、思いがけない展開に、それでもなんだか嬉しそうだった。


「拳西さん、もっと……」

そう言って、ねだるように口を開いてみせる。
一気に形勢逆転と相成った状況に、六車は心中、快哉を叫んだことだろう。
一応苦笑は浮かべて見せながら、


「ったく、これじゃお前もその犬っころと変わんねぇぜ?」

そう言って、檜佐木の口の中にまた肉を運んでやっていた。
………ふわふわとした恋人達の甘い空気。
すっかり見せつけられたそれに、先ほど折角感じていた幸福感は、もうほとんど消えかかってしまっていた。



→ 白獣の休息2へ
→ 拳修部屋に戻る