■ 仔猫の観察日記 −二日目:朝− ■
如月某日――― 朝。
……参った。
昨夜、追加の日記を書いているときに分かっていたこととはいえ、これが毎日となるとオレもそうだが修兵の身体にも良くない気がする。
何がと言えば、この小さな修兵の腹が減るペースだ。
おかげでオレも昨晩じっくりと眠った気がしない。
大人のオレがそうなのだから、況んや小さな修兵は……というところだ。
それが証拠に、ぱっと見、元気は元気なのだが、時折「ふゅふ……」と鳴いて目をこすっている。
全体を加算すれば十分な睡眠時間だが、ほぼ二時間おきに覚醒しているとなれば、やはり問題があるのかもしれない。
結局昨日から数えて……六時、八時、十時、深夜十二時、二時、四時、そして現在、朝の六時。
起き抜けに、くぴくぴとミルクを飲んだ修兵は、オレの膝の上で食休み中だ。
昨日リサが持ってきた土産―――中に鈴が入った鞠を胸に抱いて、ゆらゆらと前後に身体を揺らしている。
合わせるように動く黒い尾と耳は、昨日のまま。
阿近の薬は一日やそこらでその効力が滅せられるものではないらしい。
まぁ、それは構わない。
猫になってもオレの意思は幾分か伝わるらしいし、この姿だと、なおたっぷりと修兵を甘やかしてやれる。
ただ、猫になったからこそ生まれてしまう問題もある。
それこそが、修兵の腹が減るペースで……。
単に子どもであった時もそうだが、身体の大きさに比例した胃に、一度に詰め込める食事はそう多くない。
液体で換算して、ほ乳瓶一本くらいで一時は満腹になってしまう。
だが、それではこの潜在霊圧の高い身体は、保たない。
だから、猫化する前の修兵は、しょっちゅう何かを口にしていたし、オレも努めてそうさせてきた。
この姿になっても、エネルギー切れ防止のため、あめ玉やチョコレートなどを頻繁に口にさせてやりたいのだが……困ったことに、ミルク以外のものを一切口にしようとしない。
ちなみにそのことは―――阿近風に言うならば―――検証済みだ。
二時と四時、そして今し方も試してみたのだが、修兵は皿に並べた食べ物―――ちなみに、今の修兵にも食いやすいように、手づかみで食えるパンや果物、ブロックチョコレートやクッキーを並べてみた―――に、まるで反応を示さない。
ほら、と手に持たせてやっても、大きな目をくりくりとさせはしたものの、それを口に運ぶでもなく、元あった場所に返してしまう。
そして、オレの手を掴んで人差し指をかぷかぷ。この甘噛みが、空腹を訴えミルクをねだる仔猫の意思表示だ。
「んーん、んーん……」
「はぁ……やっぱ、ミルクか」
なんとか他のものも食べて欲しいが、ダメとあらば仕方がない。
ミルク作りも板に付き、修兵も嬉しそうにそれを飲んでくれるのは良いのだが……不都合が続くなら、阿近に相談して、何かミルクに混ぜられる栄養剤のようなものを作ってもらうしかあるまい。
そうこうしているうちに、仔猫はまた眠たくなってきたらしい。
さすがにもう朝だから、二時間も眠りはしないだろうが、うたた寝くらいは必要なのだろう。
オレの膝の上でも眠れるが、身体を横たえるならソファの方が良い。それに、そろそろオレ自身も身支度などに時間を割かなければなるまい。
抱いていた鞠をそっと取り上げ、文机の横に置いたオレは、子猫を抱いて居間のソファに。
昨晩風呂場から持ってきていたタオルを枕代わりに丸めて頭をのせてやり、仔猫の身体を寝かせてやると、オレが離れていくことを察したのか、修兵は嫌々と頭を振って「にぃ……」と、心細そうな声で鳴いた。
「みゃ……ぁ」
「あぁ……ごめんな。ちょっとだけ、一人で眠っててくれるか」
「いぁー……ぁぅ」
「嫌か。困ったな……じゃあ、ほら。これで……っと、ちょっと待てるか?」
「……ぅみゃ?」
お守りだ。
そう言って、浴衣の上に着ていた羽織を仰向けになった仔猫の身体に掛けてやる。
すると、それを自分の手で引っ張り上げた修兵は、濃灰の生地に鼻を埋めると、きゅ、っと眼を細めて「ふぁ」と鳴いた。
昨日、オレの白羽織に大層ご機嫌な様子でじゃれついていたから、もしかしたらと思ったが、想像はよい方向に当たっていたらしい。
仰向けから横向きになった仔猫は、羽織をくしゃりと全身で抱き込んで、そのままふにゃふにゃと眠り始めた。
すっかり安心したような顔に、ふと笑みがこぼれる。目蓋にかかっていた髪を少しかき上げ、軽くキスをしてからオレはそっとその場を離れると、キッチンへと向かった。
「腹減ったな……」
自分のことにそれほど時間をかける気はない。
ちょうど修兵のために準備していたパンや果物を食べ、コーヒー用の湯をわかす間に死覇装に着替える。
次いでドリップの段階に入ったコーヒーはしばし放置して、九番隊の隊首室に持って行くものを準備する。
と言っても、恐らく仕事らしい仕事はできはしまい。
主に用意しているのは、修兵に必要なものだ。
スペアのほ乳瓶に粉ミルク、外で遊ぶことになれば着替えも入り用になろう。
子どもが必要とする物は、ひととおり九番隊にあるからさておき、玩具はどうするか。
もともと子どもになった修兵のために送られた玩具が、今は隊首室に溢れている。
絵本や知育玩具の類がほとんどだが、上手くすればそれで遊んでくれるだろうから、猫用の簡易な玩具はひとまず数個で良いか。
先程の鞠と、猫じゃらしに似た鳥羽の玩具と、抱き枕にもなりそうなぬいぐるみを一つ。
それと、この……観察日記。
「あー……さて、どれが最適か」
重さはないが嵩はある。
修兵を抱くことを考えれば、荷物はひとまとめが好ましい。
そうなると……羅武達が持ち込んだ行李が手頃か。
中に入っていた残りの着物を出し、一度空にしたそれに必要なものを詰めて蓋をする。
その頃には硝子のポットに落ちていたコーヒー。
それを飲みにキッチンへと戻り、いつも通りブラックのまま熱い液体を胃に流し込んだオレは、習い性で首をごきりと鳴らした。
自分で入れたコーヒーは何となく味気ないが、今は目が覚めればいい。
合計3杯の黒い液体を空にし、修兵の元に戻ると、仔猫は先程と同じ体勢のまま、くぅくぅと眠っていた。
猫化する前の修兵は、オレが傍に居ずともなんとか眠れたが、今もそうなのだろうか。
「仕事は、ゼロにはなんねぇからなぁ……」
修兵が子どもの姿になってから、皆の厚意でオレの仕事は極端に量が減っている。
だが、隊長であればどうしてもこなさなければならない諸々はあるわけで、そんなときには恐らく、オレ以外のものに修兵を預けなければならなくなる。
それが短い時間であるときもそうだが、長時間となると……。
これは、今日にでも一度、手近なヤツらで試さなければなるまい。
だが、誰に?
猫化の症状を一番理解しているのは阿近だが、あの無法地帯の研究室は危険だし、朽木家は広いが、あの赤い副隊長が来ないともかぎらない。
そうなると……
「………日番谷の所にでも、連れて行ってみるか」
外見から一番年齢が近いと思っていたためか、子どもになった修兵が一番なついていたのは、恐らくヤツだ。
無論、このオレは別として、だが。
にゃむにゃむと口元を動かす仔猫をそっと撫でながら、ぼんやりと今日のプランを練る。
確か、真子たちがやってくるのは午後。
だが、午前中に来客がゼロという可能性はきわめて低い。
なにせ修兵が子どもになったときも、護廷隊は見事にお祭り状態だったのだ。
昨日起きたことも、すでに瀞霊廷全土を駆け巡っているに違いない。
と、なれば……
「はぁ……せめて片手で足りるくらいにしてもらいてぇもんだ」
「ふゅ?……ぁーゅ?」
「?……あ、悪い悪い。起こしちまったなぁ。まだ出るまで時間があるから、眠ってても良いぞ」
「ぃうー……む、む」
「お、もう良いのか?」
「ふみゅ!」
「ん。じゃあ着替えするか?」
おそらく、隊首室に着いたら、すぐに遊びはじめるに違いない。
着物も良いが、現世の服の方が動き回りやすいだろうか。
こんな時、ローズやリサの存在は有難い。
一体どこから調達してくるのか解らぬが、その時その時の修兵に必要な服を、しっかりと買い込んできてくれる。
おまけに、どれも修兵によく似合う。
時々……なにやらスイッチが入るのか、妙にコスプレ的な服もいくつか含まれているのだが、まぁ、それはオレと二人の時だけに着せればいい。
今は―――あぁ、これがいいか。
ハーフのカーゴパンツと、白い長袖のパーカー、その上から69と番号が入った大きめのタンクトップ。
現世で、ストリートバスケをしていた人間達が、同じような格好をしていたっけ。
細めの身体に、だぶっとした服が、大層可愛らしい。
修兵自身、大分動きやすくなったらしく、ぴょんぴょんと跳ねたりソファによじ登ったりと楽しそうだ。
ほら、と手を広げてやると、元気にオレへとダイブ。
そして、すぐさま首筋に頬が擦り寄せられる。
「みにゅ、にゃむ……」
「はは、くすぐってぇ」
猫化するまえと変わらず、甘えたな小さい魂。
よっこらせと抱き直して、柔らかい髪の毛に鼻を埋めると、シャンプーとミルクと、ついでに子ども特有の甘い匂いがする。
ある意味、眠気を誘われるんだよなぁ、これ。
微妙な寝不足も手伝って、一瞬、意識が吹っ飛びそうになる。
だが、隊長が隊舎に出勤しないのでは話にならない。
いっそ寝るにしても、隊首室でそうするべきだろうと、オレは修兵を抱いたままゆっくりと立ち上がった。
「ふゃ……なぅぅ?」
「あぁ。とりあえず、隊首室に行こうぜ。遊ぶのは、それからだ」
「みゃぁーん」
どうやら、こちらの意図は伝わったらしい。
こちらの首に細い腕が巻き付き、身体がしっかりと定位置に収まる。
小さな足の指が、腰に巻いた縄をかすめるのはいつものことだが、オレの腕に尻尾が巻き付くのは新鮮だ。
耳と同じく、ふさふさとした柔らかい毛が心地よい。
先程まとめた荷物を片手に抱えて家を後にすると、なるべく人目を避けるために、オレは建物の屋根を伝って九番隊へと歩を進めていった。
「ふ……ぁぅ」
「ん?高いところ、恐いか?」
「なーな。みみゃ……ぁぅ」
「はは。そうか、風が気持ちいいのか」
「ぁー……む」
ふわりとした髪をなびかせ、ぷくんと膨らんだ林檎のような頬を撫でていく風が、仔猫には心地よいらしい。
元々、修兵とオレの刀は、どちらも風属性。
オレも、風に吹かれることは好きだし、修兵も風と相性が良いのだろう。
そういえば、猫は高いところが好きな動物だったか?
どちらにしても、怖がらなくて良かった。
いずれ、普通に外を歩かせてやりたいとは思っているが、今の時点では、この姿の修兵見たさに人だかりが出来てどこに行くことも出来やしない。
しばらく移動は屋根の上だなと思いながら、九番隊隊舎の前まで瓦の上を走ったオレは、ちらりと周囲を伺ってから、隊舎の門扉の前へと降り立った。
門を警備中の隊士が、オレと修兵の姿にハッとする。
だが、人を集めてはまずいと思ったのか、「おはようございます」と一言だけ言って、すぐに門を開けてくれた。
悪いな、と告げてそこを通る。すれ違いざま、修兵が「にゃん」と小さく鳴いたのは、多分、修兵なりに挨拶をしたのだろう。
早起きは三文の得、ならぬ、早朝シフトの門警備は猫化した修兵のご挨拶、と言ったところか。
背後の隊士の霊圧が、感激で打ち震えるのを察しながら、オレは足早に隊首室へと向かった。
「―――よし。ほら到着だ、修兵」
「ふみゃ」
昨日早じまいをした隊首室は、普段の朝に比べて少し寒い。
修兵が子どもになった折、浦原がくれたヒーターをつけて、修兵をソファの上に降ろす。
すると、途端に心細そうな表情で、「みーみー」と鳴き始めた修兵。
オレが離れるのがとことん嫌らしい。
解ってるよ、,と頭をぽんぽんと撫でてやって、白羽織を脱ぐ。
オレのその動きでこちらの意図が分かったのか、すぐに修兵の鳴き声は嬉しそうなそれへと変わった。
次いで、待ちきれないのかソファの上に立ち上がってぴょんと跳ねる。
だが、耳と尾が生えていることに身体がまだついて行かないのか、見事にバランスを崩し、垂直に飛び上がったはずの身体が、こてんと後ろに転げてしまった。
「うわっ!危ねっ!」
「ふみ……っ?」
放っておけば、ソファの背もたれに頭部を強打していたところ、間一髪で小さな身体をすくい上げたオレは、驚きで目を白黒させている修兵を、思わずぎゅうと抱きしめた。
「はー……驚かすな、修兵」
「ぃぅ……」
修兵の耳と尾が、腕の中でしょぼんとなる。
恐かった、よりも、オレに心配かけてごめんなさい、という思いが強いのだろう。
言葉の意味が全て分からずとも、語調やオレの動き、それに鼓動の早さでそれを察したらしい。
ごめんなさい、と言いたいのか、柔らかい尻尾が遠慮がちにオレの腕に触れてきた。
なんとも可愛らしいことだ。
オレとしても怪我がなければいいわけで、目の前にあったつむじにくすぐるようなキスを送る。
「ふ、ゃ…」
「ん……怒ってねぇよ、修」
「みゃ……」
「おう。ほら。これが好きなんだろ?」
そう言って、投げ出してしまっていた白羽織を拾い、仔猫の目の前に近づけてやる。
すると、「みゃぅ!」と笑顔を取り戻した修兵は、自分の方にそれをたぐり寄せて、きゅむ、っと身体で抱き込んだ。
本当に……どうしてオレの白羽織がこんなに好きなのか。
ソファに座って膝の上に載せてやってから、ちゃんと身体をくるむようにしてやると、更に嬉しそうな顔で仔猫は笑う。
………なんだか、少々妬けるな。
「なぁ、修……」
「ふー?」
「オレの羽織、そんなに好きか?」
「みゃぃ!」
「………オレよりも、か?」
「ぅ?」
真子あたりが訊いたら、「阿呆か……」と呆れられそうだが、オレは至って本気だ。
修兵にこんなにも気に入られている羽織が、気に入らないのだから仕方がない。
仔猫はオレの問いに、きょとんと瞳を丸くしている。
さすがに、この小さな魂に答えを望むのは無理か?
だが……
「みにゅ……ぅ」
そう一声鳴いて、修兵がオレに身を寄せてくる。
甘えるようにオレを見上げる大きな紫黒瞳と、きゅぅ、とオレの死覇装を握る手で答えは十分。
額にかかっていた髪をかき上げ、つやりとした額に唇を寄せる。
「ふ……ゃん」とくすぐったそうに鳴いた仔猫を優しく抱きしめてやると、あの甘い匂いが、オレの鼻腔をくすぐってきた。
「ねみ……」
「みゅー、ぁ?」
「ん……少し眠るか」
「にゃぅ……」
先程つけたヒーターで、徐々に暖まってきている隊首室。
だが何より暖かい存在を抱いて、オレは幸福な朝寝を楽しむべく目を閉じた。
→ to be continued・・・