■ 仔猫の観察日記 −一日目:追記− ■
如月某日―――夜。
現時は既に深夜だが、先程の続きから記そう。
まず……一つ分かったことがある。
この仔猫、もとい修兵はミルクを二時間おきに欲しがるようだ。
だが、よくよく考えてみれば、それもしかり。
潜在霊圧の大きさからすれば、ほ乳瓶一本のミルクではそれくらいが限界なのだろう。
真子たちが帰ってから一眠りした修兵が起きたのも二時間後。
ちょうど良いから風呂に入れるかと思った矢先、お腹がすいたと、修兵は再びオレの指を噛んで訴えた。
風呂でめまいでも起こしたら事だと、先にミルクを飲ませてやると、すっかりミルクがお気に入りなのか、修兵は時折嬉しそうな声でオレに鳴きかけながら、しっかりほ乳瓶一本分のミルクを飲み干してくれた。
食欲が満たされれば、次は恐らく睡欲。
この時点でオレは、修兵が二時間おきにミルクを欲しがるとは考えていなかった。
なので、時間からすればそろそろ朝まで眠るだろうと当たりをつけていたわけで、そうなると、風呂に入れるタイミングは今しかない。なんとか眠る前に風呂に入れてやらないと。
「修兵、寝る前に風呂入ろうな」
「ぅ?…ふにゅぁ?んゃーにゃ?」
「そうだ。風呂だ風呂。分かるのか?お前?そうかそうか。賢いなぁ」
「にゃ……みぁー!」
オレに褒められて、修兵が嬉しそうに鳴く。
立ち上がると、甘えっ子の仔猫は、早く抱っこして、とばかり、きゅむ、っとオレの足にしがみついてきた。
ローズたちがおいていってくれた着物を持ってから、小さな身体に巻き付いている白羽織ごと仔猫を抱き上げる。
定位置に頭をのせた修兵を連れ、浴室に向かうと、オレの足の音に合わせて、ふわふわの尻尾が左右に揺れた。相当ご機嫌のようだ。
だが、本当に風呂を理解してご機嫌なのかは不明だ。元の修兵は、相当の風呂好きだったが、猫化しても同じであるという保証はない。
一応用心しておくかと、脱衣所で一度裸にした身体へバスタオルを巻き付ける。
「んな?」と首をかしげた仔猫の頭をちょっと撫でたオレは、手早く自身も服を脱ぎ、腰にタオルを巻いてから修兵を抱き上げて浴室へと入った。
「うゃ……ぅ?」
「んお。どした?」
「ふにぁぁぁぁ……」
「?……はは、そうか。やっぱり風呂好きか、お前」
「ふみゅー……ぅ」
アルカリ性の温泉が常時湧き出る我が家の風呂。
立地もさることながら、この風呂が気に入ったから、オレと修兵はこの家を買ったのだ。
特に風呂好きの修兵は、放っておけば一時間くらいは風呂に入っている。
小さな修兵も、慣れてからは嬉しそうに風呂に入っていた。
そしてこの姿になっても、やはり修兵は修兵と言うことらしい。
浴槽から立ち上るあたたかい湯気を全身に浴びて、うっとりとした声を上げた。
さっそく手桶でかけ湯をしてやってから、ゆっくり浴槽に身体を静めていくと、ぱちぱちと瞬きをしながらこちらに身を寄せてくる。
足が付かないことが不安なのだろうと、腕にしっかり小さな尻を座らせてやると、やっと落ち着いたのか、ふわっと表情が笑み崩れる。
「にゃぅー……」
水の浮力に任せて浮いてきた尻尾が、ゆっくりと湯の中で揺れる。
湧き出る温泉の流れと、尾が作る流れが混ざり、独特の波紋を水面に描いていく。
そしてしばらくすると、小さな手が可愛らしい動きで湯と戯れ始めた。
ぱしゃん、ぱしゃんと、湯が跳ねる音がする。
さすがに手で水鉄砲、などという高等遊戯は覚えていないようで、ただ手で湯をすくったり、湯面を叩いたりするだけだが、それでも仔猫は楽しいらしい。
時折、不思議な形に揺れる水面が、無邪気な感性を刺激するのだろう。
だが、それはそろそろストップ。
身体を洗う前に上せてしまっては、意味がない。
一度湯船の外に出るため立ち上がると、仔猫がちょっと不服そうな声を上げた。まだ遊びたかったのだろう。
「なぁー、ぅー……むぃーぅ!」
「あぁ。分かってるよ。でも、先にやることやってからな」
「みゅぅー?」
「さてっ、と……」
耳と尾が例外と言えば例外だが、やることは同じだ。
まずは髪をゆすいでやろうと思うが、さて……これからやることが分かるだろうか。
とりあえずシャワーをゆるめに出して、修兵を膝の上に座らせる。
この体勢になれば、早速オレに抱きつこうとする仔猫は、やはりその素振りを見せたが、抱きつかれてしまうと、やや作業が困難になってしまう。
「お、お、修兵、抱っこはちょっと待ってくれ」
「ぅ?……にゃーぁ?」
「そうだ。そのまま……目、つぶれるか?こうやって、しっかり」
「にゅ?……んー…!」
「お、よしよし。オレが良いって言うまで開けるなよ?」
そう言って、オレの見本を忠実に再現して見せた仔猫の頭に、ゆっくりとシャワーの湯をかけていく。
一瞬、ぴくっと肩が震えたが、髪をかき撫でるオレの手の動きに安心したのか、目は閉じたままで居てくれた。
「なーにゃ?」
「ん?あぁ。まーだ、だ」
「むー……ぁ」
「よしよし。良い子だ」
子供用のシャンプーを3プッシュ。
ほとんど化学添加物の入っていない特注品だから、猫耳もこれで洗って差し支えないだろう。
わしゃわしゃと猫っ毛を混ぜていくと、細く柔らかいそれのおかげで、きめの細かい泡がすぐに頭を覆い始める。
中に泡が入らないように気をつけながら、猫耳を洗ってやると、くすぐったそうな様子で、修兵の身体が揺れた。
だが、基本的に頭を洗われるのは、嫌ではないらしい。指の腹を使って優しく地肌を洗ってやり、泡を流してやろうと、再びシャワーを手に取る。
「良いか、修兵。もうちょっとだからな。絶対に、目を開けるんじゃないぞ?」
「みーぅ」
「ん、よしよし。行くぞ−?」
「ぅー……んみゃっ!?」
「っ、あ、やべ……」
「ぁ、にゃ……にゃぁぁあ!みにゃぁっ!」
「っ……やばいな、こりゃ」
頭から落ちてくるのが、ただの湯だったら差し支えなかったのだろう。
だが、泡混じりの湯がとろりと肌を滑っていく感触は、こちらが思っていた以上に修兵を驚かせたらしい。
先程よりも大きく肩が跳ね、条件反射的に開いてしまった大きな目の中に、僅かばかり泡混じりの湯が流れ込んでしまった。
子供用の特注品とはいえ、シャンプーはシャンプー。
石けん特有の刺激が大きな目を襲ってしまったようで、仔猫は火が付いたように泣き始めた。
そして、身体が赴くまま、小さな手で目をこすろうとし始める。
だが、そうしては更に痛みが増してしまう。
慌てて両手を掴んだオレは、修兵の身体を膝の上で仰向けにひっくり返し、髪の泡が顔に流れないようにしてやってから、シャワーの湯を直接修兵の目蓋にかけた。
「ふみっ、みぃっ……ぃにゃぁっ……」
「ん、ん、分かってる分かってる。すぐに痛いのとってやるからな」
「ひぅうぅぅ……ふぇぁぁぁぁ…」
「よーしよし……もう泡はないぞ。痛いの終わりだ、ごめんな……」
「みぇー、ぁぁ……」
「どうした?目、開けるの怖いか?」
「ふぇっ、みぁっ……」
「よしよし。そうだな。吃驚したもんな」
まだ濡れた目蓋を、ぎゅっとつむったままの仔猫。
開けたら、また痛いのが来る!と思ってしまっているのだろう。
肌が乾いていないことも、修兵を怯えさせている一因らしい。
喉の奥でしゃくり上げている仔猫の姿に、いったんシャワーを脇にどけ、手で目のあたりの肌を綺麗に拭ってやったオレは、まつげに残る水滴にそっと唇を寄せ、左右共々ゆっくりとそれを吸い取る。
「なぁー……ぅ」
「ん。ほら、もう平気だぞ?」
「ふみゅ……ぁ」
「どうだ?まだ痛いか?」
「みゅー……」
「そうだな。ごめんな……吃驚したし、痛かったな」
「……なぅ」
「んー……よしよし」
よほどショックだったのか、仔猫の声には力がない。
猫耳も泡まみれのまま、ぺたんと伏せられてしまっている。
多分、先程と同じように目を閉じてじっとしていてくれと言っても、嫌々と泣くだろう。
さりとてまだ泡は大量。
それにこれでは、シャワーやシャンプーを怖いものだと思ったままになってしまう。
さて、そうなると……
「修、もう痛いのも怖いの無しにするから。このままオレだけ見てろよ?」
「にゃー……?」
「そうそう。そのままじーっとしてればいいからなー……」
そう言いながら、仰向けになったままの修兵の髪に、そっとシャワーをあてていく。
言うなれば、オレの膝が美容院のシャワー台。
仰向けになったことで、より一層水が入りやすくなっている猫耳に注意しながら、たっぷりの湯で泡を落としていくと、安心したのかようやく仔猫の声から怯えの色が消えた。
仕上げに軽く髪を絞ってやり、状態を元に戻してやると、猫耳も元気に立ち上がった修兵が、ふるりと頭を一振り。
「お。自分で水切りか?偉い偉い」
「にゃう!」
「よしよし。じゃあ次に身体も洗っちまおうな」
これだけ元気なら、もう大丈夫だろう。
顔は期せずして綺麗に洗ってしまったし、残るは身体だけ。
巻き付けていたタオルを一度とってやり、スポンジにこれまた特注のボディーシャンプーを含ませる。
ぐしゃぐしゃとそれを手の中で握ると、瞬く間に泡玉の完成だ。
持ち前の好奇心を取り戻した修兵に、それはまるで手品に見えたようで、出来た泡を欲しがるように鳴いてくる。
「んー?欲しいか、これ?」
「みゃ!」
「じゃあ、半分こな?」
「ふぁー……ぁ」
「お、とと、口に入れるなよ?苦いぞ?」
「ぅー?」
「これは、こうして身体を洗うものだから……お?」
「みー、ぅー、ぁー……」
「はは。そうそう。そうやってごしごしってしてみな?綺麗になるから」
「にゃぅー」
さすが、猫であっても修兵は賢い。
というか、オレがしたことを真似るのが好きなだけか?
先程あれだけ怖がっていた泡も、すっかり気に入ったようで、オレの真似をして、自分の身体にそれをぺたぺたつけて肌をさすっている。
小さな身体が二人がかりとなれば洗い上がりも早く、尻尾も含め、数分もしないうちに全身真っ白の白猫になった修兵は、だが、まだ泡が欲しいらしい。
「なーぅ、にゃーぅ!」と、仔猫はオレが持っているスポンジを欲しがって鳴いた。
握れば泡が無限に生まれてくるスポンジで遊びたいらしい。
ちょうど良い、その間オレもやることをやっちまおう。
ほら、とスポンジを渡してやり、早速両手で遊び始めた仔猫を横に、オレは手早く髪を洗って流すと、次にがしがしと身体を洗い始めた。
それに気付いた修兵が、たっぷりその手に作り上げていた泡をわけてくれる。
「お、サンキュ」
「みゃあ!」
「へぇー……すごいじゃんか」
オレより遙かに弱い力が丁寧に生み出した泡は、密度が濃い。
まるで一流の菓子職人が泡立てたクリームのようで、それこそ食べてしまいたくなりそうになる。
修兵は、オレに褒めてもらえたと分かったらしく、嬉しそうに抱きついてきた。
泡まみれの身体が、一つの大きなスポンジとなってオレの身体にダイブしてくる。
結果、二人揃って仲良く泡まみれになったオレ達は、そのまま揃ってシャワーの湯で泡を洗い落とした。
これにて作業完了。
その後、修兵の身体がしっかり暖まるまで湯につかってから、脱衣所へと戻ったオレは、体中から湯気を立ち上らせている修兵を新しいバスタオルでくるみ、まんべんなくその肌を拭いてやった。
だが、尾と耳と髪の毛が乾くにはまだ時間がかかりそうだ。
そこで先に寝間着を着せてやってから、オレもささっと着替えを済ませると、新しいタオルを数枚と、ドライヤーを準備してから、もといた部屋へと二人で戻った。
「みー……」
「ん?修兵?」
「なぅー……ぅぅ」
身体が温まったためか、修兵は、どうも眠くなってきたらしい。
ソファでおきまりの体勢をとるなり、修兵はこっくりこっくりと、見事に舟をこぎ出した。
風量を弱めに設定してドライヤーをあててやると、あたたかくて優しい風が、なお眠気を催すようで、数分もしないうちに、修兵はとうとうオレの胸にもたれかかってしまった。
「修、もう限界か?」
「にゃぁぁぁ―…………」
「そっか。もう眠いか」
単純に時間だけなら、まだ夜の入りだが、仔猫はもうお休み希望と言うことか。
それが朝までかはさておき、折角寝間着も着せたことだから、ベッドに連れて行ってやるほうが良いだろう。
「修、ごめんな。もうちょっと……せめて、尻尾だけでも乾かそうな?」
「みぅー……ん」
どうやらまだ、かろうじて意識はあるらしい。
毛量の多い尾を逆毛立て、温かい風を送り込んで乾かしていくと、柔らかい尾がふっくらと膨らんでいく。
よし、もういいだろう。
ほこほこと膨らんだ尾がしゅるりと手首に巻き付いてくるのを確認して、ドライヤーのスイッチを切ったオレは、既に半分夢の世界へと誘われつつある仔猫を抱いて、寝室へ。
行儀は悪いが足で布団をちょいと跳ね上げ、隙間から修兵と共に身体を滑り込ませる。
そしてどの修兵に対してもそうしているように、壁側に小さな身体を下ろす。このポジショニングが、修兵を護るには最善なのだ。
「よし。いいぞ、もう」
「みゃー…ぁ……」
記憶はなくとも身体は覚えているのか、眠り慣れた寝床に、仔猫はすぅと身を預けた。
けれどその安眠には、もう一つの寝床―――オレも必要不可欠らしい。
完全に眠ってなお、しっかりとオレの手首に巻き付いた尾が、それを訴える。
かわいい愛情表現に頬が緩むのは、完璧な不可抗力だ。
「……分かってるさ。いかねぇよ、どこにも」
「…………にゃ、ぁ」
丸まった身体をそっと抱き寄せ、まだ少し濡れた髪に口づける。
その途端、ぴこん、と動いた猫耳が頬をくすぐる感触をいとおしみながら、オレはいつもよりも大分長い時間眺めることになるであろう寝顔にそっと手を添えた。
→ 観察日記:二日目に続く