■ 黒獣の安息 ■
「わりぃ、日番谷。総隊長に呼ばれた。修兵のこと二時間だけ見ててくれないか?」
今から三十分前、そう言って六車が置いていったのは、世にも可愛らしい……としか形容のしようがない生き物だった。
「にゃーぁぁぅ」
今もソファの上で鳴き声を上げたのは、隣隊の副隊長。
ただし、その身体はオレよりも小さく、更に黒い猫の耳と尻尾が生えている。
ここへ来たときから、元気に動くその二つは、本来自然には生えないものだ。否、それを言ったら、死神がいきなり子ども化することも、あり得ないことと言えるのだが。
「にゃぁ、にゃ?」
「ん?抱っこか?いいぞ、こっちに来ても」
「にゃああぁあん」
どうやら、甘えたなところは、猫耳があろうとなかろうと変わらないらしい。
元の姿の有能な副隊長ぶりがいっそ信じられないくらい、子どもに戻った檜佐木は甘えっ子だった。
檜佐木が小さくなったのは、今からもう二週間は前のことになる。
ただし猫のオプションが着いたのは、昨日のこと。
六車によれば、阿近の薬を飲んでこうなったらしい。
どうやらそれは、檜佐木を元の姿に戻すために作った薬だった、らしいのだが。
「いやー、失敗失敗。や、薬の効能がきれれば戻りますよ」
そう呑気にのたまった阿近だが、慌てたのは六車だ。
否、慌てたと言うよりも、動揺したという方が極めて正確な表現か。
なにせ、元々可愛らしかった檜佐木が、コレ。
一秒だって離したくはないのだろうが、総隊長からの呼び出しともあれば仕方がない。
三番隊、六番隊、十三番隊……色々思案した末、ここを保育所に選んでくれたらしい六車は、檜佐木が気に入っている様々な玩具と共に、「腹すかしたら、これやってくれ」と、ミルクが一杯に入ったほ乳瓶をオレに渡していった。
何でミルク?と首を傾げたオレに、「昨日っから、これしか口にしてくれねぇんだよ」と、困ったように六車は言っていた。
猫化して嗜好も変わってしまったらしい。
「んにゃあぁ、にゃあぅぅ」
「ん……?」
どうしたのだろう?
今まで膝の上でオレの手にじゃれついていた檜佐木が、急いたように鳴き始めた。
そして、オレの指を一本選ぶと、それをかぷかぷと噛み始める。もしかして……
「修兵、腹減ったのか?」
「んにゃぁあああぁぁ」
どうやらそうらしい。
つまり、ほ乳瓶に入ったミルクをあげれば良い、ということなのだが。
(ちょ、ちょっと待て!これ、どーやってやったらいいんだよ……!)
まだ少しぬくもりが残る硝子瓶を手には取ってみたものの、何から何までまるで解らないことばかりだ。
六車が残していった伝言は「これやってくれ」だったが、ほ乳瓶をそのまま渡してやれば、檜佐木は自分でちゃんと飲むのだろうか
けれど、先ほどからその動きを見る限り、どうも今の檜佐木は不器用らしい。
一緒に持ってきた虎のぬいぐるみは、何度も落っことしてしまうし、何よりこの短時間に檜佐木自身、何度ソファから転げ落ちたことか。
そのタイミングにすっかり慣れてしまったオレが、小さな身体を抱き留めただけでも四回。
見た目も動きも、まさに仔猫である。
その仔猫は、今もオレに向かって空腹を訴えている。
オレが持っているものの正体を知っているから、何度もねだるように鳴き声を上げる。
「にゃぁ、にゃあっ……にゃぁー……う」
「う、ちょ、ちょっと待ってくれ」
素直な期待に満ちた眼差しが眩しい。
オレだって、なにも意地悪をしたいわけじゃないのだ。
ただ、本気でどうしたらいいのか全く解らないだけで……。
「にゃぁぅぅぅ……」
だが今の檜佐木に、そんなオレの事情など察せられるはずがない。
それどころか、なかなかミルクをくれないオレに、檜佐木の尻尾がしょんぼりと下がっていく。
さっきまで元気よくぴこぴこと動いていた耳も、ぺたんと伏せられてしまい、あろうことかその大きな目には、うっすらと涙の膜が張り始めたようだった。
「んにゃぁぁ………」
最後通牒に等しいその鳴き声に、まずい、と心の警報が最大限の音を出したのと、檜佐木の身体が抱き上げられたのは同時。
「らしくないな、冬獅郎……」
「ひょ、氷輪丸!?」
意外な人物の登場に、思わず声が大きくなる。
なんとオレの目の前にいたのは、慣れた様子で檜佐木を抱きあやす人型の氷輪丸だった。
「にゃ……?」
驚きで泣き出すことを忘れてしまった檜佐木に、氷輪丸が穏やかに笑う。
「修兵か……すまなかったな。腹が空いているのだろう?」
「にぁ……ぁ……」
「うむ……待っていろ。冬獅郎、それを貸せ」
「え?あ、あぁ」
いとも気軽にほ乳瓶を要求する氷輪丸に、思わず言われるがままそれを渡してしまう。
使い方が解るのかと尋ねると「まぁ、見ていろ」と自信に満ちた答えが返ってきた。
「ふむ。さて……と」
とりあえず、氷輪丸の行動を見守っていると、檜佐木を抱いたままソファに腰を下ろした氷輪丸は、まず片腕で檜佐木を横抱きに。そしてもう片方の手でゆっくりとほ乳瓶を口元に近づけていった。
すると手を伸ばした檜佐木が、そのままほ乳瓶の口に吸い付いていく。
なるほど、そうすればよかったのか。
「おぉ、凄いスピードだな」
「本当だ……」
待ちに待ったミルクだったのか、檜佐木はもう一生懸命だ。
小さな手を懸命に硝子の瓶に添え、夢中で中のミルクを飲んでいく。
すると自然に閉じられたその目から、先ほどの涙の名残がすぅっと頬を伝っていった。
「ごめんな……」と呟いて、その雫をそっと拭う。
その頃には、もうほとんどミルクは空で―――満足したように檜佐木が唇を離したのはそのすぐ後だった。
「ん……もう良いのか、修兵?」
「にゃぁあん」
空腹は満たされたようで、その声には本来の無邪気さが戻っている。
すると、最後の仕上げとばかり、檜佐木を縦に抱いた氷輪丸がぽんぽんと背を叩いてやると、その口から小さな空気音が漏れた。
「うむ、これでよい……美味しかったか?」
「にゃぁぅ」
「恩に着る……助かった、氷輪丸」
「気にするな。こんな可愛い修兵をあやせる機会は滅多にない」
そう言って、早くも自分に懐き始めた檜佐木に、ふ、と笑みを刻む氷輪丸。
「にゃ……?」
すると、その笑顔に六車に似た面影を見たものか、檜佐木が、今までとは明らかに違った声を上げて鳴いた。
「みゃあ……ん」
「……おや」
驚く氷輪丸に、檜佐木が甘えるように小さな身体をすり寄せる。
黒くて可愛い耳が、何かを期待するようにぴこんと跳ねた。
それに応じるように、氷輪丸が頭を撫でてやると、また同じように鳴き、今度は尻尾が左右に揺れる。
なんだか少しばかり……否、相当悔しかった。
あの鳴き声に、聞き覚えがあったのだ。
先ほど、ここへ檜佐木を連れてきた六車に向かって、甘えるように上げられた鳴き声。
たった今、氷輪丸にむけて檜佐木が発した声は、それとそっくりだった。
つまり檜佐木は、六車と同じくらい氷輪丸に懐いたと言うことなのだ。
(ヤバイ……滅茶苦茶うらやましい……)
自分の刀に嫉妬とは、それこそまるで六車のようだ。
それを多少恥じつつ、けれど、やはり氷輪丸をうらやましく思いつつ……するとそんなオレに、檜佐木は無邪気に手を伸ばして、甘えるようにこう鳴いてくれた。
「みゃぁ…ぅ?」
けんせーと同じくらい大好きだよ?―――なんだか、そう言われたような気がした。
それから六車が帰ってくるまで、可愛い仔猫はずっと「みゃあ」と鳴いてくれた。
小さな檜佐木に目一杯甘え続けてもらったオレの顔は、その間ずっと、檜佐木や氷輪丸と同じ笑顔だった。
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