■ 幼猫の副官 ■
百余年という長い長い時間、離ればなれになっていた想い人達―――現九番隊隊長、六車拳西と同隊副隊長の檜佐木修兵。
この二人の双方向の片想いに決着がついたのは、ほんの少し前のこと。
現世も尸魂界も虚圏も、ありとあらゆる一切合財を巻き込んだ騒乱が終結し、そうして、ようやく一緒にいられるようになって………だが、そうして手に入れた平穏な日々が継続しているかと言えば、そうでもないらしい。
確かに、甘い恋人達の日々が継続していることには変わりがない。
だが恋人の一方が、ちょくちょくその姿を変えている。
本来の姿は、有能で美人な護廷隊の副隊長。
それがひと月ほど前、理由もわからぬまま子どもの姿になり、そして数日前、今度は技術開発局の阿近が創り出した薬によって、仔猫の耳と尻尾がその身体に加わった。
事態だけを見れば、一大事。
だが、仔猫の耳と尻尾が生えた小さな修兵の姿は、それが異常事態だということを忘れさせるくらい、壮絶に可愛かった。
それは総隊長をして「まぁ、そう急いて原因を探さんでもよかろう」と言わしめた程である。
総隊長としては、九番隊隊士として着任し、副隊長となり、さらに拳西が復帰するまで、有休らしい有休を取らず終いできた修兵に対し、数十年分の休暇を取らせてやりたいという思いもあったのだろう。
九番隊副隊長の仕事は、急遽、他隊に分散され、修兵はこの一カ月ばかり、子どもとして、仔猫として、実にのんびりと奔放な毎日を送っていた。
一生懸命に遊び、食べ、眠り、そしてたくさんたくさん拳西に甘える。
特に、その甘えっぷりときたら、見事であった。
ただの子どもであった時も、まれに見る甘えっ子だった修兵だが、猫化した現在、それは更に強まっている。
拳西の傍にいたいという感情を、声、動き、その全てで表す仔猫。
言葉で「好き」と言えない分を補うかのように、仔猫になった修兵は、常に拳西の傍に居たがった。
そしてそれは、まさに今もそう。
午前十時のおやつが終わり、たっぷりとミルクを飲んだ修兵は、九番隊隊首室のソファに座った拳西の膝の上で丸くなって眠っていた。
まるで抱き枕にするかのように拳西の右腕にしがみつき、鍛え抜かれた固い筋肉に頭を載せて、気持ちよさそうに眠っている。
猫耳の裏を撫でてもらうのがお気に入りなのか、拳西がそうするたびに、黒い尻尾がぱたぱたと揺れる。
柔らかい毛を纏った尻尾はふわふわと拳西の肌を撫で、時折左腕にくるりと巻き付いては、無垢な想いを拳西に伝えていた。
眠っていてさえ、傍にいたいと訴えてくる仔猫は、掛け値なしに可愛い。
傍観者も、どうやらそう思っていたようで、はふぅと羨ましそうに溜息をついた。
「はぁぁ、かーわぇえなぁー、もー」
「ホントだよねー。いいなぁ。白、ハッちんとの間に修ちゃんみたいな子ども欲しいなー」
「そうですねぇ。でも、白サンとの子どもなら、どんな子でも愛しいデス」
「やーん!もう、ハッちーん!!」
「あぁ、ちょ、ちょっと白サン!しーっ!修兵サンが起きてしまいマスヨ」
「あっ!……ご、っめーん。修ちゃん起きちゃった?」
「いや…どうやら、大丈夫そうや」
「さすがデスネ。六車サンが傍にいると、修兵サンは本当に安心して眠ってル」
「ほーんま……」
そしてまた、溜息が次々に上がる。
真子、白、そして鉢玄の順に。
そんな三人 ――― とりわけ真子を呆れたように見ているのは、もちろん拳西。
今にも両頬を零し落とさんばかりの顔をして修兵を眺めている真子に、
「おい真子…お前…仕事は?」
「んー?そりゃぁもう!……吉良が頑張っとる」
「……不憫な部下だな」
そう言って、深々とため息をついた。
もっとも、真子だけに憂いてみても始まらない。
修兵がこの姿になってからというもの、九番隊隊首室に来客がない日はないのだから。
「やれやれ……」
拳西の本音としては、修兵と二人きりにしてほしいところ。
だが、修兵に会いたがる者が多いのは仕方のない事だし、修兵自身、常に来客を楽しそうに迎え入れる。
今日はまだ、鉢玄と常連客の真子だけだが、昼時にはおそらく、片手で足りないほどの来客があるに違いない。
そうなれば、修兵は全力で皆と遊び始めるだろう。
(今のうちに、しっかりと寝かせておかねぇとな……)
幼く小さな身体は決して虚弱なものではないが、目一杯遊べるだけの体力は、きちんと確保させておくべきだろう。
そう思いながら、ゆっくりと修兵の頭を撫でてやる。
「ほんまに、ぐっすり眠っとるなぁ」
「あぁ……」
自分が傍にいれば、修兵の安眠が昼まで続くことは確実だ。
しかし……どうやら、そうもいかないらしい。
「あー……あかん。お仕事襲来やわ」
そう言って、不意に真子が、気だるそうな様子で天井を見遣った。
その視線の先にいたのは、ひらひらと舞う一羽の地獄蝶。
仕事に関わる何某かの伝令を携えてきたらしい。
「あー、折角、修兵の寝顔をゆっくり鑑賞できる思たんになぁ……」
黒い空飛ぶ訪問者を見、真子は露骨に落胆顔。
真子ほどではないが、拳西の眉間にも微妙に皺が寄る。
有事でもない限り、わざわざ地獄蝶が使われる時と言うのは、大体が臨時の隊首会が開催される時。
案の定、今回もそうだったようで……
「はー……あかんわ。臨時の隊首会や」
「ちっ…相変わらず、オレ達は休む間もねぇな」
そう言いながら、二名の隊長は大嘆息。
それでも、隊首会からのお呼びがかかるということは、無事に尸魂界に帰ってこれた事の証でもある。
ありがたいと思うに越したことはないのだろう。
「しゃーない。皆勤賞の修兵と違て、オレらは百年以上の休暇をもらっとったようなもんやし。鉢玄、白、オレらが帰ってくるまで、修兵を頼むな」
「はい。それじゃ、ひとまず私が抱っこしまショウ」
「頼む。眠ってるから、起こさねぇように、ゆっくりな……」
そう言って、修兵を鉢玄に渡そうとした拳西。
だが、それがなかなか上手くいかない。
膝の上から体を持ち上げることは容易だが、拳西の右腕を抱き込んでいる修兵は、それにしっかりとしがみついて離れない。
まるで止まり木で眠る猫そのものだが、まさかこのままというわけにもいくまい。
「ごめんな、修兵……」
自分が傍にいるからこその安眠が、少し寂しく悲しいものになってしまうことは承知だ。
けれど、否、だからこそ、せめてその眠りを途切れさせないようにと、ゆっくり自分の腕から修兵の指をはがしていく。
昼寝の時間に自分がいないことを察した仔猫がどうなるかなど、拳西にとって、明白以外の何物でもないのだ。
だから、起こさないように、起こさないように……だが、拳西の事となれば何より誰より敏感な修兵が、これに気づかぬはずはなかった。
今まで触れていた温もりを失った手が、二度三度と緩い開閉を繰り返したと思ったら、もぞもぞと小さな身体が動き出す。
咄嗟に動きを止めた拳西だが、その判断は少しばかり遅かった。
「みゅぁ……?」
覚醒を示す鳴き声が聞こえ、少し眠たそうな紫黒瞳が拳西を見上げる。
ゆっくりとした瞬きの後、小さく首が傾げられたのは、今の自分がどういう状況にいるかが解っていないためか。
「……あかん、起きてもうた?」
「いや、ちょっと待て……あー、修兵?」
「みゃぅー…?」
「あ、えっとな……まだ眠ってていいぞ」
「みぃ?……ゅー…」
「よしよし、そうだ。まだ起きる時間じゃないからな……」
「みゃー……」
「……どや?大丈夫そうか?」
「だと、思う。よし、鉢玄、今度こそ修兵をたの……」
「?……うみゅっ?」
「あ…」
作戦、失敗。
半分覚醒した仔猫の意識は、拳西の温度が離れて行きかけたことを、敏感に察知してしまったようだ。
修兵の身体を受け取ろうと、鉢玄が手を伸ばしていたことも災いしたのだろう。
自分がおかれた状況と、そのすぐ後に訪れるであろうことを瞬時に察した修兵は、抱き枕にしていた拳西の右腕に一層強く抱きつくと、いやいやと首を振った。
こうなってはもう、なんとか言い聞かせるか誤魔化すしかあるまい。
だが、それもいささか遅きに失したようだ。
猫耳を撫でてもらうという大好きな行為をされても、小さな体は固くなったまま。
拳西も驚くほどの力でしがみついた修兵は、離れまいと必死だった。
拳西にしてみれば、仔猫の強い想いは嬉しいこと然りだが、今は隊首会に行かなければならない。
「ごめんな」と呟きながら、仔猫の脇腹から左手を差し入れた拳西は、そのまま自身の右腕から修兵を引き剥がそうと、軽い身体を持ち上げた。
「みゃっ、ゃっ、みゃぁぁぁぁっっ!!」
その途端、悲鳴のような鳴き声が上がる。
それはもう胸を裂くような鳴き声だ。
「修、ごめんな、すぐに戻るから、ちょっとだけだから……」と、拳西が言葉をかけても、激しく首を振って鳴き続ける修兵は、必死で身体に力を入れ続ける。
しかし、いつまでも拳西の腕力を相手に、このままの状態を保てるはずがない。
もう、あと数十秒ともつまい。
「ごめんな、修兵」と、拳西も断腸の思いで力を入れる。
すると、徐々に徐々に修兵の身体が離れ始めた。
拳西の右腕に触れていた箇所は徐々にその面積を減らし、いよいよ残すは小さな手のみ。
修兵はもう……半分パニック状態だったのだろう。
「みゃぁっ!みゃぁぁんっっ!」
本能の赴くまま、今まで以上に悲痛な鳴き声を上げた、まさにその瞬間―――
「……ってぇ!」
「みゃっ……!?」
苦痛にゆがんだ拳西の声に、修兵が我に返る。
見れば、今まで修兵がしがみついていた二の腕に、くっきりとした見事なひっかき傷ができていた。
どうやら、最後の最後で、修兵が拳西の肌に爪を立ててしまったようだ。
そしてそれに気づかぬまま、修兵の身体を引っ張ったことで、拳西の右腕には、その軌跡が刻まれてしまったらしい。
「うお、吃驚した……修兵、大丈夫か?……修兵?」
拳西にしてみれば、とりたてて深い傷ではないが、修兵はかなりショックだったのだろう。
大きな目を更に大きくした修兵は、次の瞬間、喉を短く鳴らし、かたかたと震え始めた。
「修兵?」と真子も声をかけるが、それには応じず終い。
そして、拳西の肌に滲み始めた血を見るなり、仔猫は目の前の傷を必死で舐め始めた。
「ん?……あ、修、こら、そんなことしねぇで良い」
「みゃ、みゃ……」
「修兵、オレは痛くねぇから。な?もうよせ」
「みゃぅぅ、みゃぅぅ」
「修兵……」
この姿になり、言葉は発せなくなった修兵だが、拳西の言うことが解らないわけではない。
しかし、諭すように制止を促す拳西の言うことを聞かず、修兵は何度も何度も拳西の傷を舐め続ける。
痛みの有無より、自分自身の手で大好きな拳西を傷つけてしまったことを、心から悔やんでいるのだろう。
「ごめんなさい、けんせー」と、まるでそう言っているかのような鳴き声と共に、修兵は小さな舌で必死に傷を舐め続けていた。
仔猫の懸命の治療に、それを見る拳西たちの胸は熱くなる。
「………ほんま、いじらしい子やな」
「あぁ…」
拳西の傍にいたい。
そんな修兵の想いは、拳西からすれば我儘などでは決してない。
しかし、今の修兵は、とてもそうは思えないのだろう。
自分が我儘なことをしたから、大好きな人を傷つけた。
相手が誰より何より大好きな拳西だからこそ生まれた大きな罪悪感で、幼く純粋な心は一杯になってしまっているようだった。
そして、とうとうそれは限界に―――澄んだ紫黒瞳から、ぽろぽろと涙が零れだす。
こうなってくると、拳西とて限界だ。
「修、もう良いんだ、な?」と言いながら自分の腕にしがみ続けようとする修兵を、今度こそ力ずくで引き剥がし、胸の中に抱き入れる。
それでもまだ傷に向かって身体を伸ばす修兵を、強く抱きしめて閉じ込める。
すると、次の瞬間、仔猫は静かに泣き始めた。
「みゃ、ぁ…みゃぁあぁぁ…」
「あぁ、良いんだ、修兵。もう良いんだ」
そう言って、不規則にしゃくりあげる背中を、ぽんぽんと叩いてやると、閉じられた腕の中で、仔猫が悲しそうに鳴く。
きっとまだ、ごめんなさいを言い続けているのだろう。
腕の力を緩め、幼い顔を覗き込むと、涙でいっぱいになった瞳がこちらを見る。
言葉にならない感情をすべて詰め込んだその瞳をじっとのぞきこみ、拳西はゆっくりと言葉を紡いだ。
「修兵、な……もう平気だから」
「みゃぅ、みゃ…ぅぅぅ……」
「違うんだ、修兵。この傷より、お前が泣いてる方がオレには痛い。だから、泣きやんでくれ」
「みゃぅぅぅ……」
「ん、良い子だな……そうだ、そのまま眠ると良い。ずっと傍にいるから」
「んみゃ……ぁ」
「そうだ。どこにも行ったりしない……ん?どうした?我儘なんかじゃないから、安心しろ」
「み、ぃ……ぁ…」
「よしよし…よし……いいんだ、オレもお前と居たいんだ……」
「みゃ……」
「ん……傍にいてくれ、修兵……」
オレはそうしていて欲しい――― 一言一言、ゆっくりと静かにそう伝えると、拳西の腕の中、仔猫はまた再び眠りに就いたようだった。
「おやすみ、修兵……」
自分に委ねられた身体の重みを愛おしみながら、涙の跡を優しくぬぐってやる。
泣いて、すっかり真っ赤になった頬に軽くキスを落とすと、柔らかい尻尾がふわんと揺れた。
修兵の安眠のバロメーターであるそれを確認した拳西は、なるべく静かに席を立つ。
「どないするん?」と尋ねた真子に「連れていくさ」と一言。
「………もう、置いてはいけねぇよ。こうして眠ってれば問題ねぇだろ」
「そりゃ、そやけど……隊首会の間に起きてしまわん?一応厳粛な会や言うても、みんながみんな無口でおるわけとちゃうし、外も結構賑々しいで?」
「対策はとるさ……鉢玄、悪いが修兵の周りに簡単な結界をはってくれ」
「ン?……と、言いますト?」
「音を遮断してやって欲しいんだ。もし可能なら光も少し……あぁ、もちろんオレが抱いていられるようなタイプのヤツな」
「ふむぅ……なるほど、そう言うことデスカ」
「ぶー!ちょっと拳西!白のハッちんに注文多すぎー!!」
「まぁまぁ、白サン。修兵サンのためなら、私はちっとも苦じゃありまセンヨ」
「むむー、ホントー?」
「えぇ。タダ……ですね、六車サン」
「何だ?」
「いえ、その…今日の午後ハ、一段とお客サンが多そうデスネ」
まず間違いなく、全隊長集合デスヨ?―――苦笑交じりでそう零した鉢玄の予言は、それから数時間もたたぬうちに実証されることになる。
しかし、それは拳西にとって些細な代償。
眠る仔猫の傍にいてやれることに比したら、何程のものでもないのである。
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