■ 空白の補填 ■



厳しい残暑が過ぎ去り、昼間の日差しも、ようやく和らいできたある秋の日の午後。
普段に比べて、少しばかり雑然としている九番隊の執務室、そのソファで、三人の死神が、のんびりと食休みを取っていた。
二人と一人の組み合わせで向かい合う彼らの中間には、立派な応接机。その上に、今まで食べていたらしい昼食が載っている。
メニューは少し風変わりで、おにぎりに稲荷寿司を主として、おかずは子どもが好んで食べるようなものばかりをセレクトしてある。
唐揚げに卵焼き、ウィンナーにウサギをかたどった林檎と来れば、まるでピクニックメニューである。
だが、この場にいる大人三名にとって、それは十分に満ち足りた昼食だったらしい。
その充足感を表すかのごとく、室内にはゆったりとした空気が流れていた。
また、今の季節特有の柔らかな涼しさが、三人を心地よく包む。
そんな状況を楽しむように、残っていた食事に手を付けながら、一人が静かに口を開く。

「………平和なもんやなぁ」
「あぁ」
「ホンマ……ちょっと前までのことが、嘘みたいに平和や」
「あぁ」
「こーいうんは、幸せって形容してえぇんかな」
「あぁ」
「……お前、さっきから『あぁ』ばっかりやな」
「あぁ」
「……こらあかんわ」

会話が成り立たない状況に、とうとう一人が匙を投げた。次いで出てくる言葉は、もう完全に独り言。
「まーったく……でも、しゃぁないか」
幸せの象徴―――そう評して構わないであろう光景。
望まぬ独り言に忙殺されていた死神―――平子真子は苦笑混じりでそう呟き、目の前の二人をくすぐったい思いで見つめた。

「いつでも一緒……か」

変に声が上ずっているところを見ると、目の前の二人に充てられているらしい。
「まぁ、それも無理ないかー」
この二人―――六車拳西と檜佐木修兵は、百年以上お互いを求め合ってきたのだ。
その想いが今、自分の目の前で結実している。
やっと傍にいることを許された二人は、以来、片時も離れることがない。
ようやく、平和になった。
この二人が一緒にいるとは、つまりそう言うことなのだ。

「よかったなぁ、拳西」
「あぁ」
「はは、またそれかいな」
「………るっせ」

からかうような平子の言葉に、けれど拳西の語調は穏やかだ。
だが、それも当然と言えば当然。
腕の中には、半ば諦めることを余儀なくされていた愛し子。
こうして再び会えるなんて、思ってもみなかった。
再会が叶っただけでも奇跡。
それが、自分を忘れないでいてくれたどころか、それ以上の感情を、ずっとずっと、自分と同じ時間だけ、その心に秘め続けてくれていた。
おまけにその想いを、こんなにも綺麗な顔に、ためらいなく彫り込んでいた。

「修兵……」
 
名を呼び、髪をそっと手で梳かす。
すると指が地肌を滑る感触がくすぐったかったのか、修兵はまるで仔猫のような声をあげて身じろいだ。次いで微かに手が動き、
拳西の死覇装をきゅぅ、と掴む。
そして―――

「けん、せぇ……さん」
「っ……なんや、夢の中でもお前と一緒かいな。ほんまにもーラブラブやねんなぁ」
「う、っせぇ、黙ってろ。修兵が起きるだろうが」
「そない照れんなや。大丈夫やって。もう五日もまともに寝てへんのやろ?ちょっとやそっとじゃ起きひんって」
「それはそうだが、万が一だなぁ……」
「解った解った。静かにしとくし、昼休みの間中くらい、ここにいさせてや。オレかて修兵のことは、可愛くてしゃぁないねん」
「あぁ、解ってる。さっきの昼飯も……」
「えぇて。修兵みたいに手料理とはいかんけど、行きつけの店に頼んだら、二つ返事で承知してくれたわ。いっつも大人向けの
酒の肴ばっかし作ってるさかい、久しぶりにあぁいう子どもが好んで食べるようなもん作るんは楽しかったって」
「子ども味覚だからなぁ、修兵」
「せやな」

先ほど見たばかりの修兵の食べっぷりを思い出し、拳西と平子は揃って苦笑する。細身で、普段はそれほど食事量の多くない修兵が、
ケチャップやマヨネーズを大いに駆使して食事を取る様子は、まるで小さな子どものよう。無邪気な食欲は大層可愛かった。
そんな修兵は現在、満腹状態で拳西に抱かれて夢の中。目の周りにうっすらとできている隈は気になるものの、一見したところ
穏やかな寝顔である。

「よぉ眠っとるなぁ、修兵……なんや、最近はほんまに激務やったんやなぁ。今夜もまた、徹夜になりそうなん?」
「いや、今日は徹夜にはならんだろう。作業のピークは昨日だし、目処も付いた。もっとも定時で上がれるかは解らんがな」
「ほな、仕事終わったら地獄蝶飛ばし。ひよ里達も誘って、夕飯食いに行こうや。皆、修兵が来るゆうたら喜ぶやろし」
「そうだな……」
 
平子を始めとする元仮面の軍勢組にとって、修兵は本当に大切な存在なのだ。今だって、ここへ来たのは平子一人だが、それは、
大人数で押しかけては逆に修兵に負担をかけるからとの配慮によるもの。
徹夜続きの修兵の身体を心配しているのは、平子だけではない。
拳西もそれをよく理解している。

「………いつ終わるか確証はない、それでも良いか?」
「えぇよ。店は、どないしよか。最近出来たばっかの洋食屋がええかな。ローズが行ったらしいねんけど、修兵が好きそうなもん、
ぎょーさんあるんやねんて」
「へー……修兵、喜ぶな」
「せやなぁ……きっとまた、さっきみたいな顔して笑ってくれそうやなぁ……」
「良かったな……修兵」
「う……にゃ、ぅ……」
「んー?……はは、なんやほんまに仔猫みたいや……」
「ほんとだな……」

修兵を軸に、ゆっくりと静かに流れる時間。
このままこんな時が、ずっと続けばいいのにと二人は思う。
だがまぁ、そう予定的に物事が進まないからこそ、人生は時に面白いわけで。
つまり―――

「檜佐木せーんぱあぁぁああぎゃああああっっっ!」

………まぁ、これくらいの邪魔はあり得たわけで。
だが、それが許せるか許せないかは、また別問題。
平子は、百パーセント後者であったらしい。
そんなわけで、拳西顔負けの青筋をこめかみに浮き立たせ、急な訪問者―――もとい、六番隊副隊長、阿散井恋次に向かって
平子は容赦なく怒鳴った。

「あぁあもう、なんやねんな!六番隊の赤わんこ!折角、可愛い花を愛でてるんに、ムードぶち壊しの無粋な声を挙げなや!」
「だ、だだだだだだって………!」
そりゃ、恋次にしてみれば、ここで叫ばず、いつ叫ぶのかと言うところ。
「あぁ、先輩、お昼寝中ですか……」
対し、恋次の後ろから顔を覗かせた吉良は慣れたものである。
拳西が九番隊に戻ってきてから、修兵の家に足を運ぶことが出来ずにいた恋次とは違い、吉良は今もよく修兵の家―――
もとい、修兵と拳西が暮らす家を訪問している。そこでちょくちょく見ている光景であるが故に、いちいち驚くこともないのである。
ただまぁ、恋次の肝っ玉の名誉のために、今更ながら一応現状を有り体に述べておくと、九番隊執務室のソファで半身を起こした
状態の拳西に、修兵がべったりと密着して眠っている、と言う状況なのである。まぁ、それだけでも恋次には絶叫ものだろうが、
また拳西の腹部の69と、修兵の頬の69が、ちょうどぴったりと合わさるような体勢で、見るものをして妙に艶めかしい印象を
与える光景ではあった。
そんなワケで、未だ痙攣中の恋次をさておき、吉良が前に出る。

「お休み中のところお邪魔します、六車隊長」
「おう、真子のところの……」
「なんや吉良やん。どないしてん?九番隊に用あったん?」
「えぇ、ちょっと……先輩の署名が欲しくて」
「修兵の?それ、オレで代理はきかねぇか?」
「というと?」
「修兵、今さっき寝たばっかりで、起こしたくねぇんだ。ここ数日、瀞霊邸通信の編集作業が追い込みかかってて、ろくろく眠れてなくてな。
今も飯食ってすぐに仕事しようとするもんだから、無理矢理こうして寝かせたとこだ」
「それでお昼寝ですか。ただ、申し訳ないんですが、代理署名のきかない書類でして」
「そうなのか。なら、せめて昼休みが終わるまで待っててくれねぇか?」
「ここで待ってても?」
「あぁ。ただ、ぎゃーぎゃー叫んでくれるなよ?」
「だって、阿散井君?」
「……んが」
 
拳西のみならず、味方であるはずの吉良にまで釘を刺されては仕方がない。
拳西と修兵で座面の全てが占められているソファを諦め、真子のいるソファに恋次はしぶしぶと腰を下ろした。
吉良もその隣に腰を下ろす。
ちなみに、そこから見える修兵はまさに絶景。
大分深く眠っているらしく、恋次の叫び声がとどろいたというのに、穏やかな寝息は全く変わらない。よほど疲れているのか、
それとも拳西が傍にいるからなのか。
無防備な寝顔に、恋次の鼻息は既に荒い。
そんな恋次に、平子がからかうように言う。

「どや、六番隊副隊長。修兵、めっちゃ可愛いやろ?」
「な、なななな何であんたが得意気なんすか」
「えーやん、別に。ほれ……拳西が頭撫でるたんびに、手ぇが動くんよ。拳西の死覇装をきゅーって掴むん。可愛えぇなー、もう」
「お、おぉ……」

真子の言うとおり、確かに可愛い仕草である。
普段は綺麗というイメージが強いだけに、余計に可愛さが際だつ。

「あーのー……六車隊長……」
「写真撮ったら、断地風でぶっ飛ばす」
「ですよね……」
「自分、たいがい諦め悪いなぁ……」
「本当にね……」

拳西対恋次、これまでの勝率は―――言うまでもない。
それでもなお、無謀な挑戦をやめない恋次に、平子と吉良が揃って溜息をつく。

「阿散井君、もういい加減諦めたら?どうしたって君と先輩の関係は変わらないって」
「んなこと、やってみなけりゃ………」
「解るって。どれだけ時間が経っても、君と先輩の関係は変わらないよ」
「吉良……もうちょっと希望的な観測はねぇのかよ」
「ないよ。六車隊長がこっちに戻ってきてからでさえ、もう大分経つんだよ。ほら、先輩の髪がこんなに伸びるくらい時間が
経ってるんだから。いい加減諦めなよね」
「いーやーだー」
「ったくもう……」
「はは。チャレンジャーやねぇ。若い若い。それにしても、確かに修兵の髪伸びたなぁ」
「えぇ。院生の頃を思い出しますよ。懐かしいな」
「あー、院生の頃って言うと、例の実習の時くらいになるん?」
「えぇ。それこそ写真なんてほとんど残ってないでしょうけど、すごい美人だったんですよ。今でも勿論そうですけど、
クールビューティーって感じで。高嶺の花。こんな風に、僕たちの前で無防備に眠るなんて、とても考えられなかったです」
「そーかぁ……そりゃ綺麗やったんやろな」
「えぇ。女生徒の羨望の的でしたよ」
「修兵が?」
「はい。けれど、心配しないでくださいね、六車隊長。先輩は一度も……」
「あぁ……知ってる」

修兵が頬に墨を入れたのは、霊術院に入学してすぐのこと。
技局の阿近に彫ってもらったと言っていた。
それは、たった一人の男だけを心に抱いて生きていくことの決意表明。
これまでずっと、本当の意味で修兵の世界にいたのは、真実、拳西だけなのだ。
生きているか死んでいるか、会えるのかなんて勿論分からない長い月日を、それでも誰になびくこともなく、修兵は拳西だけを
支えに立ち続けてきたのだ。

「信じて、待っててくれたんだな……」

一番愛しい者と引き裂かれていることが、どれだけ辛いことなのか、百年近くの間、修兵と引き裂かれていた拳西自身、
それは痛いほどよく解っている。
なのに、その辛さに耐え、修兵は自分を待っていてくれた。
何一つ揺らぐことなく。

「修兵……」

こうして過去の修兵を知るたびに、言葉にならない感情が胸を突く。
梳き続けていた髪をほんの少し掻き上げ、露わになった額に唇を寄せた。
感謝と愛しさをこめたキス―――拳西のこの行為に、平子と吉良はそれぞれ、「あ」と呟いただけだったが、恋次はそうはいかない。
「ぎゃあああああっ!!何やってんすか、アンタはー!!]と、絶叫再来。しかも、耳をつんざくばかりの大絶叫である。
「せやから騒ぐなっちゅーに!」と真子が言ったが、もう遅い。
恋次の大声に反応して、拳西に抱かれた修兵の身体が、これまでとは違った動きを見せ始める。拳西の死覇装を掴んでいた手で
己の目を数回ゴシゴシ。次いで上半身がゆっくりと持ち上がり、拳西を映す漆黒の目がうっすらと開かれた。

「………あーあ、とうとう起こしてしまいよった」
「しょうがねぇなぁ……まぁいいか。折角だし、少しだけ起こしてその書類に署名させてから、また寝かせるさ。な、修兵?」
拳西はそう言ったものの、だが修兵本人は不本意なタイミングでの目覚めに、意識が追いついていないらしい。
「んー……ぅ……」
起きるどころか、拳西の首に腕をまわし、ますますぴったりと張り付いてしまう。
「修兵?どした?起きられねぇか?」
「んー……まだ眠い……」
「ったく……でっけぇ子どもだなぁ」
「ぅー……オレはぁ、もう子どもじゃないですー……」
「んな寝ぼけた声出してりゃ、説得力ゼロだぜ?な、修兵、折角だ。ちょっとの間だけでいいから起きろ。お前の後輩が―――」
「………やだ、ぁ」
「……修兵?」

………何か、変だ。
自分に耳に届いた声。その音色が、いつもより僅かに高い。
その異音はほんの刹那―――だが、拳西にはそれだけで全てが了解できた。
片腕を回して修兵をきつく抱き寄せ、平子達にこう告げる。

「………悪い。修兵……スイッチ入ったらしい」
「はい?」
「スイッ…チ?」

何のことだ、と吉良と恋次が首を傾げる。
だが、平子にはそれで伝達完了。

「りょーかい。ほな、オレらは退散や。ほれ、机の上のモン片付けてや、六番隊副隊長」
「は?な、何でオレ!?」
「固いこと言わんと、ちゃっちゃと動き。吉良も行くで」
「えぇ?でも先輩の署名が……」
「そんなん、オレがいくらでも偽造したるわ。ほれほれ撤収撤収」
「ちょ、ちょっと、せめて理由くらい……」
「それは後でな。ほなまたなー、拳西」
「あぁ……―――修兵、ほら、もう良いぞ」
平子達三人の姿が完全に消えたのを見、自分にしがみついて離れようとしない修兵の背中を、拳西がぽん、と一つ叩く。
それが、合図。
「拳、西さん……」
「あぁ。解ってる。修兵……とりあえず行くぞ」
「ん……っ」

拳西にとってみれば、修兵くらい軽いものだ。
今までの体勢から修兵を横抱きにして抱え上げた拳西は、ソファを離れ、自身の机の横の床板を、勢いよく蹴りつけた。
すると数秒も経たぬうちに、そこに大きな口が開く。九番隊の隠し部屋へと通じる階段状の入り口である。護廷十三隊の各隊には
隊長しか知らされていない隠し部屋があるのである。九番隊のそれは、執務室の地下、入り口は拳西の机の真横というわけだ。
地下へと続く階段を豪快に露出させた拳西は、修兵を抱く腕に力を込めながら、一段一段階段を下りていく。
終着点は、十畳ほどの部屋。
二人の来訪に反応して、仄かな灯りがともる。
部屋の中央には、巨大なベッド。
ここは、長時間家に帰れない徹夜作業の折、修兵と仮眠をとるために、拳西が自身の手で改装した部屋なのだ。実際昨日も
、ここでわずかばかりの仮眠をとった。
二人で眠っても窮屈でないベッドに、そっと修兵を下ろす。
今まで首に回されていた修兵の腕が、その途端、するりとベッドに落ちた。

「修兵……」
完全に弛緩しきった身体をゆっくりと撫でてやりながら、名前を呼んでやる。
すると、自分を映す黒の双眸から、見る間に涙が溢れ出てきた。
柔らかい肌を滑り落ちる、透明な雫。
修兵本人は、これを止める術を知らない。
何が辛くて、痛くて、哀しくて泣いているのかも、今の修兵には解らない。
たった今、この場で感じている感情で、泣いているわけではないからだ。
涙を止めるには、修兵自身を戻してやるしかない。
修兵が一人で過ごしてきた、あの日々に。

「修兵、我慢するなよ……?」
「………っ」
「良い子だ……解るな?ここはお前が泣く場所だ」
「ふ……ぇっ」
「……戻れ、修兵」

拳西が、そう言った瞬間だった。
修兵の口から漏れ聞こえる泣き声が、完全に子どものそれに変わった。
ふにゃりと歪んだその顔も、何故か非道く幼く見える。
ぼろぼろと、止めどなく零れ落ちてくる涙。
優しい手つきでそれをぬぐってやりながら、震える身体を腕の中に抱き入れる。
瞬間、弾かれたように抱き付いてきた修兵をしっかりと抱きしめ、嗚咽に揺れる背中を、撫でてやる。胸元からひっきりなしに
聞こえてくるのは、己を呼ぶ声。
必死に自分を求める修兵の姿は、百年以上前の修兵と重なって見えた。

(今日は、子ども……あの頃の修兵か……)

前回は院生、その前は今と同じ子どもだった。二週間位前のその時も、舌っ足らずな幼い口調で、それでも必死に自分の名を
呼んで泣いていた。

(………これでもう、何回目になるか)

修兵が初めてこうなったのは、自分がこちらに戻ってきて本当にすぐのことだった。
ちょうど今日と同じように、執務室のソファで微睡んでいた折、驚くほど唐突に、脈絡もなく泣きだした修兵は、やはり今と同じように
まるで子どものように泣いた。
幸いにも、しばらく経って、修兵はいつもの修兵に戻ったものの、それ以来、時々修兵は、こうして泣くようになった。
時に子どもに戻り、院生に戻り、席官時代に戻り、涙を流す。
修兵がこうなるのは、おそらく自分のせいなのだろうと思う。
流したかった時に流せなかった涙が、修兵には山のようにあるのだ。
人が泣くのは、自分が守られていると確信している時―――自分を守ってくれる腕があって、ようやく人は本当の意味で泣く事が出来る。
それは死神であっても同じ事。まだ幼い時分、守られていなきゃならないはずの時を、誰からも守られずに生きてきた修兵は、あの時まで
本当の意味で泣いたことがなかった。
あの時の―――巨大虚から修兵を救ったあの出来事は、自分が思う以上に修兵の全てだったのだ。そしてあの出来事が、
修兵の泣き場所を決定付けた。
修兵が涙を流せる場所は、今も昔も、そして未来永劫、自分の腕の中だけ。
自分が一緒にいてやれなかった時間。
だからそれはそのまま、修兵にとっての泣き場所がなかった時間になるのだ。
おまけにあの日、別れ際に自分が修兵に残してやれた言葉ときたら、よりにもよって、『泣くな』と『笑え』
しかも、修兵はそれを忠実に守って生きてきた。あの日以来、どんなに辛くても、痛くても、哀しくても、決して泣くことをせずに
生きてきてしまったのだ。
だから、謝るしかない。あの時の、己の無力に。
傍にいてやれたなら、修兵はちゃんと泣きたい時に泣けたのだろうから。
泣ける場所が用意されてなお、感情を抑えられるほど修兵は器用じゃない。
だからこそ、自分が戻ってきた今、時をさかのぼるようにして涙を流す。
自分に出来ることは、過去に戻った修兵に、涙の理由を聞いて、それを受け止めて、分け合って―――思う存分、修兵を泣かせて
やることだけだ。

「けんせ……けんせ、ぇ…っ」
「あぁ、大丈夫だ……オレはここにいる。修兵……何で泣いてる?」
「怖いよぉっ……また、あのおっきいのが来たの……っ」
「巨大虚か……また狙われてたんだな……」
「けんせぇっ……やっ、やだぁああ……!」
「大丈夫だ、修兵。大丈夫……オレはここにいる」

ここにいてお前を守ってる―――その言葉を声にのせた瞬間、修兵が一際大きな泣き声を上げた。まるで身体全部で泣いているような
その声が胸に突き刺さる。
想像を絶するその痛みを受け止め、なお、好きなだけ声を上げさせれば、恐怖に彩られていたそれが、徐々に変化していくのが解る。

「……んせ、けん、せ……ぇ」
「あぁ……ここにいる、修兵」
「う、ん……」

どうやら、峠は越えたらしい。
胸の中から聞こえて来る修兵の声は、子どもが甘えるときのそれに変わっているし、こちらにしがみついて震えていた身体からは、
再び力が抜けて行っている。
感情を全て出し切って、最後まで泣き切ったのだ。

「頑張ったな、修兵……」

そう言って、すっかり乱れてしまっていた髪をゆっくりと梳いてやる。あやすように手を動かすたび、修兵の身体が更にこちらへと
沈んでくるのが解った。

(もう少し……だな)

そして―――それからおよそ数十分後。
腕の中の気配が突然に、ふ、と変わった。
修兵が、こっちに戻ってきたらしい。
抱きしめる力を弱め、少し身体を解放してやると、聞き慣れたトーンの声が自分を呼ぶ。
「…け…んせ、さん」
「……修兵、もう、いいのか?」
「……はい」

ゆるゆると、腕の中から上体を起こした修兵は、目こそ真っ赤に泣き腫らしてはいたものの、いつもの穏やかな表情で拳西を見つめていた。

「おかえり……」
 
まだ少し涙が残る目元に唇を寄せる。それに、少しくすぐったそうな動きで応じた修兵は、次いで、小さな声でこちらに詫びてきた。
「ごめんなさい、拳西さん……オレ、また……」
「?……何で、謝る?」
「だって、いつもいきなりだし、オレ自身、コントロールできないし……迷惑、だから……」
そう言って、申し訳なさそうに肩を落とす修兵。
だが、そんな修兵の額を軽く指で弾いてやった拳西は、逆に笑ってこう言った。
「……莫迦。んなことで謝るな。迷惑なんかじゃねぇ。むしろ礼を言いたい位だ。こんな形でチャンスをくれるお前に、
オレは心底感謝してるんだからな」
「チャンス……?」
何の?―――そう言って首を傾げた修兵に微苦笑と共に告げる。
「お前が一人で生きてきた時間を、オレも一緒に生きさせてくれるチャンスだよ」
「時間?オレ……の?」
「あぁ……藍染達との戦いの中で、お前に再会して、こうやってお前の傍にいられるようになって、お前がずっと一人で立ち続けて
きてくれたことを知って……オレはさ、オレ達が一緒にいられなかった時間を……もう一度お前と一緒に生きたくなってな」
「もう一度一緒に……」
「あぁ。妙な表現だがな……だからあぁやって、お前が時をさかのぼるようにして泣いて、その時の痛みや恐怖をオレに全部分けて
くれることが、本当に嬉しいんだよ。ずっと一人で生きてきた時間を、もう一度、オレが一緒にいる時間として生きていきたいって……
お前が、そう言ってくれてるみたいでな」
「拳、西さん……」
「……呆れたか?こんなの、ただのエゴだからな。こんなにも長い間、お前の傍に居てやれなかったのは、偏にオレの
無力のせいだってのに、今更―――」
「っ……そ、そんなことないよ、エゴなんかじゃ……」
「本当に優しいな、お前は。けれど、良いんだ……」
「駄目だよ!全然良くない!だって、だって、そんなの絶対エゴじゃない!なのに、どうしてそんなこと言うの……っ」
「修、兵……」
「っ……ご、ごめんなさい。でも、エゴなんかじゃないです。拳西さんは、オレが苦しかったことも痛かったことも、全部全部一緒に
感じたいって、そう言ってくれてるんですよ?
 さっきだって、オレの泣き声が、オレ自身があの時感じてた恐怖が、拳西さんの中に刺さってくのがすごく良く解って……痛くないわけ
ないんでしょう?痛かったですよね。なのに、その痛みまで一緒に背負っていくって……そんなのエゴなんて呼んじゃ嫌です……」

お願いですから―――そう言うと修兵は、拳西の胸にそっと己の身を寄せた。
そしてすぐ傍に見える拳西の69に手を当て、まるで祈るように目を閉じる。

「それに……ねぇ、拳西さん。拳西さんが、オレが一人で生きてきた時間を、一緒に生きてくれるなら、オレだって、拳西さんが一人で
生きてきた時間を一緒に生きたい……」
「修兵……」
「駄目…ですか」

そう言って、こちらを見上げてくる黒曜石の瞳。
その側にある69に手を添え、拳西はゆるく首を振った。
「これ以上、オレを喜ばせるなよ」―――照れたように、そう言って。
刹那、拳西の視線を捕らえていた黒曜石が、嬉しそうに瞬く。
その美しさと愛おしさに、たまらず拳西は修兵をかき抱いた。その腕に幸せそうに閉じこめられながら、修兵は問う。

「オレが一人で生きてきた時間を、拳西さんはもう一度一緒に生きてくれますか……?」
「あぁ……」
「拳西さんが一人で生きてきた時間を、オレはもう一度一緒に生きて良いですか……?」
「あぁ……」
「拳西さん、拳西さん……っ」
「あぁ……」
「全部……オレに全部下さいね。拳西さんが一人で生きてきた時間の全てを。オレも、あなたにオレの時間を全てあげますから」
「………あぁ」

二人で一緒に、過去の時間を生き直そう。
ゆっくりゆっくり時間をかけて、お互いが一人で手にしたものを与え合おう。
それが、どんなに気の遠くなるくらい時間がかかることだとしても、何も心配ない。
そのための時間は、幾らでもある。

過去に戻るための未来の時間―――それは、この二人だけに許された無限の時。




<あとがき>
例の院生時代の事件の時、修兵は泣いたのかな……あぁ、でも泣くことはしないんだろうな、と思って作ったお話です。
何で泣かないのかは、やっぱり拳西さんがらみと言うことで。
百余年前のあの時、拳西さんに助けられて仔修兵が泣いたって言うのは、拳西さんの傍なら安心して泣けるという事実に
仔修兵の身体が無意識に反応したからだと思ってます。
泣くって言うのは、ある意味一番弱い姿をさらけ出すってことですからね。
安心して甘えられる場所にやっと再び会えたから今だからこそ、修兵は泣くわけです。
そして、そんな修兵がメチャメチャ愛しくって嬉しいんですよ、拳西さんは★




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